神さま願いを聞いて下さい
赤いグラスを手の平に載せ
私は熱心に祈りました
ほんのわずかでもいいのです
たった一回でいいのです
このグラスがそっと浮かび上がって
心に描く想いそのままに
ふんわり宙に舞い上がって
赤いワインがふわふわゆれて
弱い暖熱光線の光を浴びながら
ダンスを踊ってくれたならば
私はあなたの豊かな温もりを
きっと、信じることが出来るのだけれど
燃えるようなワインが揺れている
私の祈る心のように小刻みに
どんなに思いを込めても
ワインはゆらゆら震えている
私はとても悲しくて
滲(にじ)んだグラスは鈍い光に
さざ波を立てるばかりでした
いつもこんなことばかり
小さな部屋で祈り続けて
もう何年経つのでしょう
心の触れ合いが欲しくて
私は友達を捜しました
でも本当のお話をする人は
世間にはありませんでした
私はいつも一人きり
狭い部屋は牢獄みたいに
私を封じ込めるのです
ワイングラスは宙には舞い上がらず
生きることはこんなにもつまらなく
こんなにもみすぼらしいものなのは
それは豊かだったはずのこの大地が
おかしくなっているのでしょうか
それとも稔(みの)り損ねた私だけが
おかしくなっているのでしょうか
私には分からない
ワイングラスは宙には舞い上がらず
悲しくてまたグラスに口づけをする
自分の心から滴り落ちる血潮が
こぼれ落ちた上澄み液のような
寂しい酸っぱさが口の中にあふれ
涙がそっとそこに流れ込むのです
生きることは
もっと楽しいこと
歓びに満ちたこと
活気に溢れたことが
沢山沢山あって
快楽のために感情を玩ぶような
デフォルメされた物語や
人をあざ笑うことだけを目的に
罵り合う娯楽の楽園のような
そんな忌まわしいものではない
もっと静かでひたむきで
ずっと生き生きとしたもの
人と人とが豊かに社会を
築いて行くためのもの
男と女が真剣に
愛を語り合うためのもの
人の心をファッションみたいに
流行(はやり)の言葉で着こなしたり
命の尊さを使い尽くして
情緒を玩ぶための道具にしない
もっと真剣でひたむきなもの
そんな社会の有りようが
きっとあるはずなのに
誰も心にとめなければ
誰もそれを望まなければ
理想の世界はおとぎ話のまま
私は独りぼっちで立ちつくす
私のグラスは宙には舞い上がらず
そしてこの心を分かってくれるだれか
いつか現れるとずっと待ち望んでいた
恋人なんて本当はどこにもいない
私はいつも案山子(かかし)みたいに
誰とも心通わぬ恐ろしい世界に
ぽつんと残されている
生まれてこなければよかった
グラスが宙に舞い上がらないような
こんなつまらない世界に
生まれてこなければよかった
聞いていた音楽が途切れて
はっとして顔を上げれば
いつしかカーテンの向こう
明るい光が射し込んで
夜が溶け出していく
なんでこんなに毎日毎日が
同じように過ぎて行くのだろう
なんでこんなに朝のせせらぎが
わびしくてたまらないのだろう
そしてなんでこんなにも
眠ってすべてを忘れることが
寂しくて寂しくて
不意に涙が流れるのだろう
私には分からない
夜明けに指先のワイングラス
赤い揺らめきはいつしか消えて
色もなくほんのり揺れている
きらきらきらきら揺れている
私の涙で揺れている
止まらない涙で揺れている
それが悲しくて胸が痛い
それが悲しくて心が痛い
そっと引き出しをあけると
小さな刃物は氷のように
冷たいやいばを研ぎすませ
私のことを待っている
そっとその刃(は)を引き出して
そっと手首に当ててみた
浮かび上がる血管が小さく
必死に脈を刻んでいる
そっとあてたカミソリの刃を
ほんの少し横に動かしたら
私は幸せになれるでしょうか
誰かに抱(いだ)かれたい
大丈夫だって言って欲しい
一人ではないよって優しく
耳元でささやいて欲しい
お前は正しいのだって
間違っていないからって
力強く諭して欲しい
そう思ってもう何年
本当に何年たつのでしょう
生まれた時からずっと
どんなに話し掛けても
どんなに聞き耳たてても
誰の言葉も分からない
まるで理解出来ない
この世の中が間違っていないなら
私一人が間違っているのだから
私は指先に願いを込める
もし今このワイングラスが
そっと宙に持ち上がって
時をとどめて下さるならば
私に証しを見せてくださるならば
私は間違っていないのだと
きっと信じて歩んで行きます
もし間違っているのならば
私は温かいこの手首の刃を
滑らせて真っ赤な血をそそぎ
最後の乾杯をいたします
ですがほんの少しだけ
どうかお願いですから
私に歓びをお与え下さい
思い詰めるようにグラスの煌めきを
瞬きもせずに見詰めていた
思いは極まり指を放せば
ワインは宙には舞い上がらず
がしゃんという鈍い音を立てて
グラスは四方に砕け散った
私は崩れるように嗚咽(おえつ)して
握りしめたカッターを投げ出して
すすり声を上げながら破片を拾う
小さなガラスが指先を裂いて
赤く染まってまあるく膨らんだ
私は泣きながら絆創膏を探す
痛いよう痛いようと思いながら
私は泣きながら絆創膏を探す
そして死のうともしなかった
ねえ、神さまはなぜ
この世にいないのだろう
2008/5/27