下女を味方に付けたモルゴースはついに屋敷を脱出した。変装して歩く町中は、市民の活気に溢れて新鮮な歓びに満ちている。ついに騎士学校の門で待ちわびると、アーサーは「本当に出てきたのか」と大いに驚いた。今日も5人そろって、町に繰り出そうと思っていたところだったのだ。さっそくモルゴースを皆に紹介したアーサーは、彼女を町に連れ出したのである。モルゴースもがらの悪そうな少年たちに恐れを抱きながら、アーサーの無邪気な瞳を善人と信じ、彼らに付いていった。特にガウェインの姿は初めはおっかなくてしょうがなかったらしい。しかしこの日以来、彼女はごくたまに館を抜け出して、彼らと遊び回り、市井の生活に接し、楽師の技を楽しんだり、その内アーサーに合わせて、一緒に歌ったりしながら、次第にうち解けていった。
しかし王都の警備はそう甘くはない。モルゴースが館を抜け出している事はじき明らかになり、特に遊び相手がアーサーだと知れると大問題になった。まさか異父兄弟で引かれ逢うとは、ユーサーもイグレインも思っても見なかったからである。さっそく警備が厳重になり、モルゴースは厳しく叱責され、館から出ることは難しくなってしまった。
この時期、ユーサー王にとっては、東ゴートとの同盟以来不満を高まらせつつある、北方ブリトン人の王達の動きも心配であり、これにモルゴースやアーサーの事まで考えていたのでは、心がもたない。北方でかなりの勢力を誇るロト王と婚姻関係を結び、反乱のおさえとするために、モルゴースを嫁に出したらどうかと思い始めた。ロト王はすでに前の妻との間に、ガウェイン、アグラヴェイン、ガレス、ガヘリスの子供たちをもうけていたが、先だって妻を亡くして、今は悲しみにくれていると聞く。率直に言えば政略結婚だが、悪い話しではない。年齢だってまだ40代に入るか入らないか、夫としてはむしろ安定した歳の開きではないか。ユーサーはイグレインにも話したが、妻も胸騒ぎを感じていたところだったから、アーサーの側にあるよりはとこれに賛成した。もちろん本人の同意など無用。それが当時の高位の娘の結婚の姿であった。
そんな事はまるで知らず、モルゴースはもう一度何としても館を抜け出そうと、懸命に作戦を練っていた。アーサーの誕生日に、お祝いをする約束をしていたからである。これはアーサーの仲間達も知らない、2人だけの約束だった。そして彼女は、大分時間に遅れたけれども、ついに館を抜け出して、待ち合わせの場所に走ったのである。
アーサーは待っていた。館を抜け出したのが発覚して、モルゴースは外に出られないと聞いていたが、それでも彼は待っていた。もしかしたら、今日は抜け出してくるかも知れない。そんな気がしてならないのである。時間を過ぎても帰れなかった。これはアーサーにとっては珍しいことである。何事をも割り切ることを好む彼が、割り切れない思いに悩まされ、ぐずぐずと待ち続けるとは。そこに彼女が息を切らせて走ってくる。スラリと折れそうな細い体を揺らしてくる。そばにせまって顔を合わせた途端に、何だか可笑しくなって、二人で笑い出した。
アーサーは、「森に行ったことがあるか」と聞く。「森の中に?」とモルゴースが返す。「誰も居ない森に行こう。僕が紹介してやる。」と手を取ると、二人で町の向こうに歩き出した。少し行くと馬が止めてある。わざわざ用意しておいたのだ。びくびくして馬に乗れないモルゴースを助けて、自分の背中に座らせると、勢いよく走り出した。風を切る逞しい腕の下から、モルゴースの抱え込む腕は柔らかく、2人は共に胸を高鳴らせ、森に向かって駆け抜ける。
アーサーは森の神秘を彼女に教えてまわった。森の奥に分け入ると、突然その姿が変わるのだ。不思議な見たこともない動物や、薄暗いところを瞬くように飛ぶ精霊や、風に吹かれて黄金の粉をまき散らす大木が現れてくる。普段隠れて人に見せない、もう一つの姿が隠されている。アーサーはそれをよく知っているのだった。モルゴースはただ驚きながら辺りを見回した。するとアーサーは、「子供の頃一度だけ空を飛んだんだ」と無邪気に語りかける。モルゴースもこの不思議の森の中では、そんなこともあるのかしらと思って、「今でも飛べるかしら」と聞いてみる。「そうだなあ」と考えたアーサーだったが、試しに何度も飛び上がってみたけれど、もうそれは無理だった。「駄目だった」と笑いながら、小さな水辺を抜ける板を横切ると、小さな草で覆われた小屋のようなものが見えてくる。遙かむかし子供の頃、不思議な友達に連れられて森で遊んだ時に、小さな草の家を作って、そこを砦として遊んでいたのだったが、まさかそれが枯れもせず、崩れもせず、そのままの姿で残っているとは夢のようだ。やっぱり森は不思議だ。そう思ったアーサーは、モルゴースを小屋の中に案内して、子供の頃の思い出を夢中で話し始めたのだった。そしてそのまま二人の距離は次第に近くなり、二人はその日、初めて抱き合ったのであった。二人共に初めての経験であったから、小屋を包む草花たちも、あまりの初々しさに瞳を閉じるほどだったという。
安らかな眠りから覚めてみると、外の明るさも大気の香りも、小屋に入る直前とまるで変わらない。アーサーは、「どうしてか分からないけど、不思議の森の中にいると、どんなに遊んでも眠っても、ちっとも外の時間が流れていないんだ」と、幼き頃の友達の口調を真似して教えてやった。「本当にそうなら、ずっとこうしていたい。」モルゴースはアーサーを覗き込んだ。二人はまた口づけを交わし、優しく肩を寄せ合った。
どのぐらい一緒に過ごしただろうか。二人は何度も肌を寄せ合い、疲れ果てては夢の中をさ迷うように、互いの温もりに寄り添っていた。ようやく外に出ると、アーサーはその小屋に向かって、「また二人で来るのだから、それまで壊れては駄目だ」と命令する。モルゴースがくすくす笑いながら、「お願いします」と小屋にお辞儀をすると、小さな葉っぱは寄り添って、すれたようにさらさらと鳴り合わせた。こうして二人は町に戻ると、時間は森を往復した分だけしかたっていなかったのである。
2人は館を抜け出せた場合の連絡方法を決めると、出会った場所で握り合った手をそっと離し、静かに別れたのである。幸いモルゴースが抜け出したことは、誰にも知られずに済んだ。しかしそれでも、モルゴースはもう二度と館を抜け出すことは出来なかったのである。あの幸せな一時が、二人にとって二度と帰らないことを、二人は間もなく知ることになった。
翌日のことである。モルゴースは王宮に呼び出され、ユーサーとイグレインにロト王と結婚すべきことを告げられた。もちろん結婚などしたくないと断ったが、彼女の意志など政略結婚にとって何の役に立とうか。
父からは
「もはや決まったことだ」
と冷たく言われ、
頼みの母も
「お前は妹たちと違って知っているはずです。本来なら殺されていたかもしれない私たちが、王のもとで幸せな生活を送り、お前もずいぶん贅沢な生活をさせて貰いました。その上わがままを言うのは、母は許しません。」
といつもの優しさはどこに行ったのか、鋭い口調で言いはなった。
モルゴースは顔を真っ青にして館に戻ると、三日三晩泣き続けたが、彼女は内省的な良識を持つ温和しい女性だった。こっそり館を抜け出して戻るぐらいの勇気は持っていたが、自分の生まれ育ったしがらみを棄て、自由の空に羽ばたくような責任のない生き方は、彼女には出来なかったのである。
その三日目の夜遅く。彼女が泣き疲れたまどろみの中で横たわっていると、窓の外でこんと叩く音がした。音は小さく、それでも何度も窓を揺さぶり、ふっと目が覚めた彼女は、驚いて暗がりの中で外を見詰めた。恐る恐る近づいてみると、小さな声で「モルゴース、モルゴース」と呼ぶ声がする。間違いない。アーサーの声だ。
モルゴースは夢中になって窓を開けた。どうやってこの三階まで上がって来たのか、アーサーの影がそこに立ちつくしていたのである。彼女は発作でも起こしたようにアーサーに抱きつくと、そのまま声を潜めて泣きだした。(この時の詳細は何時か記す時があるだろう。)アーサーは自らと共に逃げだし、二人だけで生きて行こうといきり立ち、モルゴースがそれに対して、人は沢山の繋がる糸の中に生きていて、その繋がりのお蔭で生かされている。それをすべて切って棄てるような生き方は間違っている、と自分を説得するように答え、
「大切に育てて下さった両親を見捨て、私を連れて逃げ出したら、あなたの家族がどんな目に合うのか、その責任まで背負えるの。私は嫌です。私が館を逃れ、私を今まで育ててくれたこの家の人達が、この先どのような罰を受けるのかと思うと、あなたと共に逃れても、決して幸せにはなれない。」
と言えば、さすがのアーサーも言葉に詰まってしまった。
それでも若い彼は何もかも無くしても、二人でいれば幸せは見つかるのだと信じ、随分子供みたいにモルゴースの肩を揺すったのだけれど、最後には彼女に諭されてなだめられるように、彼女を奪い去る猛き心を抑え、最後の口づけを交わすと、まだ日の昇らぬ館を抜け出したのであった。アーサーの影が消えるやいなや、モルゴースの張りつめていた心の糸は切れるように、崩れ落ちて嗚咽が止まらなかった。
その一週間後のことである。モルゴースは改めて王宮に入り、迎えの使者と共に豪華な送迎の馬車に乗せられて、多くの兵に護られながら城門を出た。先頭からは金管奏者達が、威勢の良いファンファーレを何度も繰り返す。城下には多くの市民達が、美しい王妃の晴れ舞台を見届けようとして、右に左にひしめきながら、馬車の過ぎるのを見送っていた。
花嫁の馬車の前にはユーサーとイグレインの馬車が、後ろにはエレインとモルガンを乗せた馬車が並び、その横を兵達が行進する。そこに一人の青年が乱入してきた。モルゴースの馬車に駆け寄ろうとすれば、兵達が剣を抜きだして「止まれ、何者だ!」と叫ぶ。アーサーだった。
騒ぎを聞き背後に目を向けたユーサーは驚いた。自分と同じ髪の色の若者が、若き自分の姿のような青年が、王宮の護衛兵に立ち向かおうとしていたからである。一目でアーサーと分かったユーサーは、自分でも疑うばかりの大きな声を張り上げた。
「そいつを斬ってはならん!」
王の言葉に服従を誓う兵どもは、ただちに剣を納めた。ただモルゴースの乗る馬車を固めて、アーサーを近づけまいとする。その時、騒ぎの原因を知って馬車の扉を開いたモルゴースが、半ば体を乗り出して、アーサーに悲しく手を振った。アーサーも強く手を振り返した。車輪が回るように、二人の距離はたちまち遠く離れる。やがてアーサーは立ちつくし、モルゴースは馬車の中に泣き崩れたのであった。
ユーサーの横に座るイグレインは、久しぶりに息子の姿を見て動揺した。こんなことなら、兄弟でも構わない、いっそ二人を結びつけて、もう戦争とか、政略とか関係のない世界で、幸せに暮らして貰いたいという思いが胸を掠めたのである。しかし彼女はもう少女ではなかった。長い間のユーサーの妃としての生活が、より大きなものを護るために、個人の幸せを犠牲にすることを十分理解していたのである。だから彼女は、そんな思いは胸の中にそっとしまって、ただ夫に向かって、
「これでよかったのです」
とだけ言った。若き日の自分を思い出していたユーサーもまた、
「そうだ」
と一言呟いただけだった。
2007/08/09メルマガまで