「僕の手のひらの上で、空を飛べるなんて、君は幸せだ。」
驚く瞳をぱちくりさせて、
握りしめた手先の向こうには、
すでにジョルダンの姿はなく、
悪戯好きそうな少年が楽しそうに笑っている。
やんちゃそうな眼がキラキラと輝いた。
これもまたマーリンの仮の姿なのだろうか。
しかし笑顔の向こうを見てみたまえ、
速力を増して近付いてくるのは、
骨をも砕く堅き城壁ではないか。
「危ない!」
ついユーサーが叫び声を上げた瞬間、
2人はまるで滝をくぐる魚のように城壁を抜け、
はるか海原(うなはら)を見下ろす大気に放り出された。
空には霧を追い払った月灯りが、
大地を影のように照らし、
眠る草木の青々しい香りは、
新鮮な風と溶け合って、
2人を軽やかに押し流す。
ユーサーは声も出せずに、
はち切れそうな鼓動を落ち着かせ、
ようやく震えながら大地を見下ろした。
国を治める国王とて、
常識を遙かに越えた経験には為(な)す術(すべ)もなく、
高ぶる筋肉は全身を震わせ、冷たい汗が沸き上がった。
ユーサーはようやく呼吸を整えながら、
夜風を感じるゆとりを取り戻し、
青白く映し出されたこの国を見下ろしたのである。
海と陸の境界線にせり出して、
ティンタージェル城は静かに眠っている。
もう狩の小屋ほどの大きさだ。
海に注ぐ月は煌々(こうこう)と大地をも照らし、
不思議な妖精の世界のように眠りの島を浮かび上がらせる。
そのあまりの雄大さに驚き、
遙かなる天を見上げれば、
眩しくそびえる黄金(こがね)の向こうには、
小さな星たちが消されまいとまたたき、
また、ゆらめきながら遊ぶのだった。
心地よい上空の季節風が、
2人の横を海に向かって抜けていく。
ユーサーの心は急にわくわくしてきた。
我々の住む世界は、
これほど雄大で神秘的なものであったのか。
ユーサーは自分たちの必死の争いが、
自然界の豊かな営みの中では、
塵芥(ちりあくた)に過ぎないことを知り、
大自然の代表がマーリンなのかもしれないと思った。
マーリンはただ一言、
手を離しては駄目だと言って、
子供の姿で夜鳥(よるどり)と戯れている。
その黒き姿を追い掛けて、
鳴き声を真似て話しをしたり、
急に3,4羽の群れに加わって、
共に旋回を試みたりした。
しかしそのうち暇になったのだろうか、
とうとうユーサーを道連れにして、
空中で激しく宙返りをしたり、
急に雲に潜ってその中を泳いでみたり、
突然大地に向かって急降下を始めては、
ツバメのごとくに雲の世界に戻ってくる。
いわばやりたい放題、遊びたい放題、
とうとうユーサーを大地に投げ捨て、
地表近くで拾ってくるような荒技まで、
始めてしまったのである。
しかし今ではユーサーも叫びながら、
楽しそうに笑っていた。
すっかり安心してしまったのだ。
この無邪気な魔法使いと、
今は幸せにただ夜空で戯れていたい。
彼は愉快な悲鳴を上げ、
鳥のように笑い遊んだのである。
こんなに空っぽの愉快は、
子供の時以来だ。
愛する女を抱いて、
鳥のように遊ぶ、
無邪気に戯れて、
イグレインと口づけを交わし・・・。
あるいは短い彼の生涯において、
この夜は神の贈り物だったのだろうか、
今となっては知るよしもない。
塵芥(ちりあくた・じんかい)
・ちりとあくた。ごみ。(スーパー大辞林)
芥(あくた)
・ごみ。ちり。転じて、つまらないもの。(スーパー大辞林)
2007/05/28掲載
2007/07/04改訂