レンブラントとレンブラント派

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レンブラントとレンブラント派展ー聖書、神話、物語

2003/9/13〜12/14 国立西洋美術館
主催ー国立西洋美術館、NHK、NHKプロモーション


注意書き

管理人の絵画知識は著しく曖昧です。展覧会で見たときの記憶と、もっぱら購入した解説書を参考にしながら、備忘録の意味を込めてあること無いこと平気で書いてありますので、何かしかの知識を得たい方は、有用なページを検索したほうが有意義です。


展覧会の趣旨

 レンブラントの活躍した17世紀オランダは東インド会社の活動でも知られるように、世界的貿易の中心地としての繁栄を謳歌していた。教会、王侯貴族に替わって、新興商人達がパトロンとなり、さらには市場で取引される既製品として絵画が売買された。風景画、風俗画、静物画などが隆盛を誇る中、なぜレンブラントは、そして彼の工房はなぜ物語絵画を目指したのか。
展覧会とカタログは「前レンブラント派」「レンブラント」「レンブラント派」の大きな括りを、更に分けることによって7つの部分からなっている。展示場も同様に分類される。


1.前レンブラント派

 入り口に入って第一の部屋。レンブラントの師であり、北方のヴァザーリを目指すカレル・ファン・マンデルの画家伝(1604年)によって、「将来有望で現在イタリアに滞在中」と書かれたピーテル・ラストマン(1583-1633)と近辺の画家達を、可哀想なことではあるが前レンブラント派と呼ばせてもらおう。ラストマンはレンブラント自身だけでなく、彼の工房に関わる多くの弟子達にまで、大きな影響を及ぼした。ラストマンの描いた主題はその後レンブラントと弟子達によって選択されることになる。もしかしたら17世紀オランダ物語り絵画のおとっつぁんなのかもしれない。

ピーテル・ラストマン(1583-1633)
「キリストの磔刑」(1616)

・十字架左の福音書記者ヨハネの横に立つ聖母マリアから右の斜め方向に、マグダラのマリア、十字架の右に気を失う(おそらく)クロパのマリアと3大マリアが3人の磔刑と呼応している。(そんな無茶苦茶な解説は見たことがない)
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2.レンブラントの版画

 その部屋から続いて、下に降りる階段まで半ば通路気味に版画コーナーが続く。版画でも非常に多くの物語画を作成したレンブラントだが、特に多いのはやはり聖書関係である。物語主題の版画をこれだけ集中して作成している点は17世紀オランダでも抜きんでてはいるが、同時に絵画ではほとんど見られない風景版画が多数存在する点も絵画通にはたまらないものがある。(らしい)

まず、レンブラントの略歴をどうぞ。>>>略歴

「ラザロの蘇生」(1632頃)

・若き時代のライバル?ヤン・リーフェンスとの競演から生まれた。やや左全面に後ろ向きのキリストが立ち、蘇るラザロをはさんで反対側で驚く男に向けて、右奥斜め方向に構造ラインが向けらる。さらにキリスト背後側の暗部と向かって男側の輝きの対比が劇的な効果を高めている。油彩画にしたら迫力のある絵になったのではないだろうか。
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「善きサマリア人」(1633)

・右下に控えて糞などをいたしている犬っころが、誰かの落書きだとされた時代もあったが、犬がいないと構図が成り立たないという落ちもある。

「羊飼いへのお告げ」(1634)

・1630年代半ばはレンブラントのバロック時代なのだそうだ。劇的構成を持つ大作と取っ組み合っていたとか。

「暗い室内のヒエロニムス」(1642)

・祈る老人の側にライオンを見つけたらとりあえずヒエロニムスと言ってしまえば、2回に1回はうまくいく。

「病人達を癒すキリスト(100グルデン版画)」(1648頃)

・100グルデンもの高額で取引されていた版画。マタイの福音書の幾つかの奇跡を同時にやってしまっている構成になっている。
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「書斎のファウスト」(1652頃)

・空中に円が浮かび上がりそこにINRI(ユダヤ人の王、ナザレのイエス)が浮かび上がる。驚く学者らしき人物から、後の人々が勝手にファウスト博士と命名してしまった。
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「三本の十字架」(1653)

・展示品は第3ステート(例えば完成させた銅版何枚か印刷したのち、再び手を加えて印刷した物を第2ステート、以下続く。)で、この作品は途中尋常ならざる大改編を行っている為、ステートが違えば違った様相を呈する。磔刑周辺の光度の高い部分の人々は驚くほど簡素化されて描かれ、すこし離れてみるとそのために手前の2人の人物から磔刑の現場まで驚くほどの奥行きを感じ取ることが出来る。逆にこの絵画の先生だったら叱りとばしそうな、細部を切り捨て結果として表現性を増すような遣り方は、最終的に感情に訴える要素が強いため、均質を美徳とする時代や採点主義的傾向の強い時代には名声を蹴飛ばす者達が現れることになったのかもしれない。
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「エッケ・ホモ(この人を見よ)」(1655)

・レンブラント版画最後の大作だそうで、やはりステートが異なると大改造がなされている。(手前の群衆が全部消されるなど)


3.レンブラント絵画

 だいたいを肖像画と物語画が占め、他に数点の風景画があるが、静物画はない(別のところにはあるようなことが書いてあった気がするが)レンブラントの絵画だが、肖像画でも物語的アプローチの見られるものが多数あるほど、物語性への欲求は強いものだそうだ。初期作品の傑作とされる「悲嘆にくれる予言者エレミヤらしき人物」が出展されているため、それを見るためだけでも金を払う価値はある。一方レンブラント工房で作られかつては本人の作品だと思われていた3作品も展示してある。

「愚かな金持ちの譬え(たとえ)」(1627)

・カラヴァッジョの明暗表現に打ちのめされてオランダでいち早く追随者を自認してしまったのはユトレヒトにいた二人の画家、テルブリュッヘンとホントホルストであるとされるが、彼らの20年代の絵画に刺激されて書いたものかもしれないね。

「悲嘆にくれる予言者エレミヤ」(1630)

・右上から左下に向かって一人の老人が左手に首を預けながら俯き加減に悲しげな表情を光の方向に向ける。老人を照らす光はまるで老人の足下を光の水面が漂う様にすら見える。その斜めに走る光の左側に遠く暗闇の中、燃えさかる町並みが浮かぶ。今まさに崩れ落ちる町を悲しむのか、やがて起こる悲劇の幻視なのか、何時しかこの老人は予言者エレミヤであるとされるようになった。>>>これですね

「スザンナと長老たち」(1636)

・バテシバとスザンナはルネサンス以来、神話のビーナスに対して、聖書における女性裸体画礼賛の格好の餌食になったが、ここでは二人いるはずの長老が一人しか見あたらず、スザンナがまるで鑑賞者の方を覗き込んでいることから、もう一人の長老はあなたに違いない。あらあら。

「善きサマリア人のいる風景」(1638)

・絵画においては数少ない風景画しか残していないが、ただの風景だと思ったら大間違いである。ほら、小さく善きサマリア人の逸話が書かれているじゃないか。これは、物語風景画なのである。・・・こうして絵画のジャンル分けは日に日に細かくなっていくのであった。
・強いインパクトを持つ暗い大木とその向こうに広がる町に光が当たっているが、その光は暗雲の隙間から差し込む日の光には到底思えず、まるで自ら平地が光り輝いているよう。その光源に向かって大木の反対側の細道をサマリア人が病人をロバに乗せて歩いていく。非現実的な幻想風景のキャンバスに小さくはあるが鑑賞者に十分に物語性を認識させるだけの存在感を持っているように見える。ちなみにこのような幻想的風景はレンブラントが敬愛していたヘルクレス・ピーテルスゾーン・セーヘルス(1590ー1633/38)の風景画の影響、または共感が見られるそうだ。
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「ヨセフを訴えるポテパルの妻」(1655)
その隣に「ヨセフを訴えるポテパルの妻」(1655)レンブラント工房版

・特にレンブラント作品の方は絵画の劣化が激しく完成時の印象がわかりにくい気がする。ただし、動的で場景に奥行きの見られるレンブラント作品に対して、工房版は教訓画のような幾分型にはまった感じがする。ちなみに当時の工房では弟子の完成させた作品ももちろん師の所有物であり、それを売却するのも師が管理した。そして工房作品の責任はまさしくレンブラント自身に帰属する。そんな関係で、本人作品か、工房作品かはっきりしない物が多々ある。

「モーセと十戒の石版」(1659)

・怒りに駆られたモーセが石版を高く上げて、黄金の子牛を木っ端みじんに打ち壊すという(何か違うぞ)出エジプト記のシナイ山でのクライマックスを描いたもの。
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「聖ペテロの否認」(1660)

・晩年の作品は大胆で素早い筆さばきを特徴としていると言われても、絵筆を握ったことがないのに、納得してはいけないような気もするが、そう言われればそう見えるさ。ペテロに対して女中がイエスの一味だと言い放つと、そんなことは知らないと否認する場面を、女中の手に隠されたろうそくの光から照らし出すという構図。一説によると、三人に順番に一味だと言われそれを否定していくところを、三人同時に書き込んでみたという噂もある。ついでに奥に控えて振り向く人々を一番声を上げる鶏に変更したら、ただのパロディーになるから気を付けよう。
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「修道士に扮するティトゥス」(1660)

・ティトゥスはレンブラントの息子だが、修道士に扮したティトゥスの肖像画を描いたのではなく、ティトゥスの扮した修道士を描いたのである。それは息子であると同時に、普遍的価値を持った修道士という抽象化された存在なのだ、分ったか。と誰かが大いに威張って説明していそうな気がする絵画。(どんな絵画だ。)
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「聖家族」(?)

・聖母マリアとその母アンナが眠れるイエスを見守っている構図だが、同時に日常風景画でもあるのだ、こんちきしょうめ。とは説明していない。


4.レンブラント派1(ライバルと最初の弟子)

 工房では師の様式に近づく努力を惜しまない生徒達も、工房を離れ一人前になる頃には己の技法を身につけていくため、無理にレンブラント様式や選択主題の一貫性で説明することは困難である。それを知った上で、工房出身者達の絵画の持つレンブラント的な要素を見つけ出すことは、好きな人にとっては楽しいものらしい。しかしその前に、共にラストマンの元で学びあったヤン・リーフェンス(1607-1674)も忘れないで欲しい。共にラストマンから物語画を学んだ彼の絵画にも、レンブラントとの共通点が発見できるかもしれない。さらにその後でレンブラント最初の弟子ヘリット・ダウ(1613-1675)の絵画を見ていこう。この一番弟子のダウは後にレイデンにおいて「一層精密に丹念に仕上げちゃう派」(レイデン精緻派)として知られることになる。

ヤン・リーフェンス(1607-1674)
「ラザロの蘇生」(1631)

・リーフェンスはどんなに深刻な場面でもある種の陽気さを忘れなかった、と言ったのはどこぞの管理人だが、ラザロの蘇生の構図も、暗闇に天空を見詰めるイエスのどことなく己惚れた調子も、深刻であるよりは、ちょっと微笑ましい。幼稚園児の中には絶対笑っちゃう人がいるはずだ。
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ヘリット・ダウ(1613-1675)
「シャボン玉を吹く少年と静物」(35-36)

・シャボン玉、骸骨、楽器、砂時計、ひょうたんなどは当時「ヴァニタス」(この世のむなしさ)を表す寓意とされていた。空前絶後の繁栄を謳歌した17世紀オランダでは、財産や名声がもてはやされ、その反作用として現世における財産や名声の虚しさを表したヴァニタスを主題とした絵画や、「メメント・モリ(死を思え)」を主題とした絵画が数多く描かれた。(当時のヨーロッパ全般に宗教が今日よりずっと身近で切実な問題であったことと、自分の子供や近親者の死を見詰める機会がずっと多かったことが一番の要因ではあるが。)
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ヘリット・ダウ(1613-1675)
「隠修士」(1670)

・隠修士本人と同等に明確に細かく描かれた前面の植物などに鑑賞者の焦点が向けられるため、隠修士ではあるものの、ちょっと賑やかな、華やかな感じがしないでもない。(よくある逃げ口上か)


5.レンブラント派2(1630年代)

 1633年にキリスト受難の連作の制作を始め、翌年にはサスキア・アイレンブルフと結婚するなど、絵画も生活も順調な30年代に工房で学んだ画家達を取り上げる。30年代半ばのレンブラントはバロック的なスケールの大きな劇的手法に手を染めていたそうだ。

ホーファールト・フリンク(1615-1660)
「ヤコブを祝福するイサク」(1638)
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「マノアの供儀」(1640)
「ハガルとイシュマエルの追放」(1640-42頃)

・いずれの絵画も登場人物は3人で、しかもそれぞれに異なる感情と表情を表している。3人の対比は同時に服装の色彩などによっても高められている。ついでにマノアはサムソンのお父上である。

フェルディナント・ボル(1616-1680)
「アブラハムの犠牲」(1646)

・絵画の大きさの割にスケール感が乏しいという噂もあるが、類似色傾向が強く、光がドラマの中心にスポットを当てる形で使われ、光の広くあたっている部分はイサクと背後の大木の一部にかかる部分ではあるが、顔だけ陰に隠されたイサクに対して、顔だけが照らされているアブラハムに焦点が向けられる。そのアブラハムの見詰める先には肩半分がスポットライトを浴びた形の天使がいる。レンブラントのような劇的場面描写への指向性は持つものの、出来損ないのドラマ性に過ぎない、取って付けたような謎のナイフがピカイチ光る、と通りがかりの学生が言っていたのはあんまりにも非道い。ボルの他の絵画はもっと明確な輪郭と、明確な色彩を持って描かれている。その後年の絵画を見たさっきの学生は、「先生から離れて、お目出度くなっちゃった」と呟きながらどこかに行ってしまった。
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ヤン・フィクトルス(1619-1676)

・名前だけで失礼いたす。

ヘルブラント・ファン・デン・エークハウト(1621-74)

「アンナと盲目のトビト」(1652)
「ソロモンの偶像崇拝」(1654)
「メレアグロスとアタランテ」(1666)
「ウェルトゥムヌスとポモナ」(1669)
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・物語絵画をこよなく愛する点において彼は師匠レンブラントの忠実な弟子だった。ウェルトゥムヌスとポモナとは何だろなと解説を見てみると、イタリアの男神と女神のペアで、庭園や果樹園の守護神だそうだ。豊穣、愛し合う夫婦を象徴し、17世紀オランダで非常に好まれた主題だったとある。ウェルトゥムヌスは女神ポモナに言い寄るがかまってもらえず、やけになっていろんな姿形に変身している内に、うっかり老婆の姿になってしまいポモナに笑われたのが恋の芽生えなどという、たわいもない神話が残されている。


6.レンブラント派3(1640年代)

 40年代になると、オランダで出版された「絵画芸術礼賛」でレンブラントの「サムソンの婚礼」が模範に上げられるなど名声は確固たるものになったが、「夜警」を仕上げた42年に妻サスキアが天上人となってから悲惨の後半生が始まるのである。などと二昔前の解説本になら書かれていても可笑しくない。

カレル・ファブリティウス(1622-54)
「メルクリウスとアグラウロス」(1642-47頃)
「メルクリウスとアルゴス」(1645-47頃)

・確実な作品は10点程度しかないもののデルフトに居住したこともあり、レンブラントの弟子よりヨハネス・フェルメール(1632〜75)に先行する画家としての位置付けが有名らしい。(何も知らないもので)姉妹ヘルセとメルクリウスの逢い引きに嫉妬をしたアグラウロスが、メルクリウスが部屋にはいるのを邪魔するやいなや、メルクリウスによって石に変えられてしまうという、とりとめもない逸話を描いた作品が掛けられている。スポットライトに照らされた主題部分にいっそう鑑賞者の注意が行くようにと、背後の暗部をレンブラントより一層大胆に省略して荒く描いたら、「君、それはいくら何でも遣り過ぎじゃないかね。かえって背後の荒削りが目に付くようになってしまった。」と注意を受けたので、「メルクリウスとアルゴス」においては焦点と周辺部のバランスを考慮に入れて完成度の高い絵画に仕立て上げて見せた。(という逸話は残されていない)

カレル・ファブリティウス(1622-54)伝
「洗礼者ヨハネの斬首」

・切ったばかりの首を土産のように差し出すと「あらよくってよ」とサロメが、誇らしげな顔を見せる刹那を描いた作品で、おそらく、たぶん、あるいは、カレル・ファブリティウスの作品ではないかとされている。少し前にも日本に来たことがある絵画で、見るのは2度目だ。この絵画はいったん首切り役人の後ろから顔を覗かせているおっさんに目がいくと、手前の人物達よりもそのおっさんに目が行ってしまうようになるという、恐ろしい呪いが掛けられている?ついでに、カレルの弟、バーレント・ファブリティウスの作品も今回出展されているが、省略させてもらおう。
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サミュエル・ファン・ホーホストラーテン(1627-78)

・画家としてよりも「絵画芸術の高等画派入門」(1678)を書いた絵画理論学者として知られているそうで、レンブラントを卒業した後は明快な輪郭と色彩を持ち、陳列的構成を持つ古典主義に傾倒して(なんだ、その古典主義の定義は?)、かつての師であるレンブラントのむしろロマン派に通じるような絵画を文章に書いて非難してしまうことになる。


7.レンブラント派4(1650年代)

50年代になるとレンブラントに凋落の影が忍び寄る。(いや、解説に書いてあるのだから、間違いない。50年代は凋落の時代である。)妻サスキア亡き後、偽りの妻ヘールチェ・ディルクスと裁判で争って精神も金銭も疲れ果ててしまったとも、金銭感覚がしっかりしていなかったとも言われるが、しかし、真の傑作はこの時期に生まれたのだそうだ。そんな50年代にレンブラントに学んだ3人の画家で展覧会を締め括るつもりらしい。

ウィレム・ドロスト(1630-59)
「窓辺に立つ若い男」(1653-4頃)

・最近になってようやく評価され始めた画家で、イタリアに勉強に行っている間に29歳の生涯を閉じることがなければ、もっとも名の知れた画家の一人になっていたのかもしれない。このたわいもない絵画も、左側に光の差し込む窓にもたれかかり何かを読んでいる赤い帽子を被った男と、中央に差し込む光に照らされて鮮やかに浮かび上がる机に掛けられた赤い敷物、その机の前に窓際の方を向いて少し前まで窓際の男が座っていた事を十分アピールしている椅子があり、さらにその左側、本来なら暗く描かれるかもしれない奥の部屋は、物陰に隠れた室内照明で光のスポットが作られ、全面左側から中央に掛けての男と椅子に対して、十分にバランスがとれている。
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ニコラス・マース(1634-93)
「アブラハムの犠牲」(1655-58頃)」

・余りにも羞恥心のない開けっぴろげの構成と、驚くほどに悲壮感の全くないただ部屋で寝っ転がるかのようなイサク、さらに謎のこびとさんにしか見えないアブラハムを、アメリカの漫画にでも出てきそうな羽の生えた男(天使ではなく)が見下ろすという、きわめてアニメチックなこの絵画は、今日だけでなく、当時も人々の大爆笑をかっさらったという。さらに笑いを納めてフロアーを移動すると、「風景の中の子供たち」という同じ作者の絵画が飛び込んでくるため、息つく間もなく、同じ4つの顔がヘンテコな構図の中に漂うのを見て肝を潰すことになる。
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アールト・ド・ヘルデル(1645-1727)

・レンブラント最後の弟子で、同時に忠実に(というか共感的に)師の教えを忠実に守った例外的存在と書いてある。

「神殿奉納」(1700頃)

・ヘルデルの代表作の一つだそうで、聖母マリアと旦那ヨセフが生まれたばかりのイエスを神殿に捧げると、神殿祭司シメオンが選ばれた子供の到来に感じ入って神に感謝を捧げるという刹那を描いたもの。マリアやイエスに対して圧倒的に細かく綿密に描かれたシメオンに自然と視点が行くことでしょう。
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「キリスト逮捕」(1715頃)
「カヤパの前のキリスト」(1715頃)

・最晩年ド・ヘルテルは注文を受けていないらしい、22点からなるキリスト受難伝の連作を自発的に(とされる)制作したが、そのうち12点が今日残されている。その内の2点。

最後に

 では何故物語画家を目指したのであろうか。当時オランダでは専門分野を区切って生計を立てる(立てざるを得ない)画家達がひしめき合っていた。物語画をそうした専門区分の一つとするなら、物語絵画のジャンルに一定量の需要があったことがレンブラント達が物語画を目指せた理由にはなる。プロテスタント国家のオランダは絵画などで聖書の内容を説明することは無くなり、教会から直接聖書画の依頼が来ることはなくなった。しかし、一方で裕福市民層の私的な礼拝場などでは聖書物語画の需要は高かったし、聖書の挿絵には説明の版画が加えられたが、そのような小サイズの版画や絵画は独立した絵画として市場に出回っていた。公共の建築物からは、古代ローマの偉人達や、神話を題材にした絵画が求められた。さらに、当時のヨーロッパ絵画伝統が聖書や神話を主題とした絵画の制作を最高ランクのもの、画家としての最高の名誉と考えられていたこと、それは肖像画家が隆盛を極め、風景画や風俗画を専門的に扱う画家達の数多く現れたオランダでも、共通理念として存在していた事が上げられる。ただし、それよりもドラマの一場面のクライマックスを捉え、その瞬間を動的に映し出すことに画家としての喜びを感じるレンブラントの資質が、物語絵画を作成する直接原因なのだろう。ところでレンブラントは物語絵画を画家達の専念すべき数多くの専門分野の一つとして捉え、そのジャンルの中で活躍することが画家の本分だと考えていたのだろうか。おそらくそのようなことは無いだろう。ひょっとしたら彼はこんな事を考えていたのかもしれない。「画家には2種類ある、1つは限られたジャンルの絵画を専門に消費に答え賃金を得る職人としての画家、そしてもう一つは様々な絵画に挑戦し、それぞれの芸術性を極め、その中で最高ジャンルとしての物語絵画を目指すルネサンス的芸術家としての画家。」・・・・・ほんまかいな。だんだん書いていて、何から何まで出鱈目に思えてきた。とりあえず、新しい情報を仕入れたら、また書き直せばいいから、今回の展覧会の感想として、こんな感じということで。はいさようなら。

2004/1

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