推古朝時代を中心とする飛鳥文化。それは仏教が浸透し始め、王族や豪族が氏寺など造り出した時期の文化であり、同時に唐や朝鮮半島はもとより、シルクロード交易によるササン朝ペルシアやギリシア、ローマ帝国などの影響を持った国際的(コスモポリタン)な様式を持つ文化である。例えば仏寺の柱には、ギリシア建築の特徴である中央の膨らみ(エンタシス様式)が見られるし、すいかずらのつた草を文様化した忍冬唐草文様(にんどうからくさもんよう)も、アッシリアの伝統が時と場所を越えて伝わった跡を見ることが出来るという。
蘇我氏が仏教にのめり込んだ姿は前に見たが、厩戸皇子(聖徳太子)も政権に参加した593年に、難波(なにわ)に四天王寺(してんのうじ)の建立を行っている。例の物部守屋との戦で、勝利したら四天王を奉る仏寺を建立すると誓ったからである。ここは聖徳太子建立七大寺の一つであり、倭国で最初期の仏教寺としての誇りから、1946年に天台宗から独立、現在は和宗総本山と名乗っているそうだ。
厩戸皇子の建立が確認される仏寺はもう1つある。これが607年に建立されたとされる斑鳩(いかるが)の斑鳩寺(法隆寺)であり、その西院伽藍は世界最古の木造建築物群となっている。ただし現在残されている西院伽藍は670年に再建された後のものだ。
一方蘇我馬子が建立した飛鳥寺(法興寺・ほうこうじ)は、日本書紀によれば588年から建造が開始された。百済からもたらされた釈迦の遺骨(仏舎利・ぶっしゃり)を納めるための塔を中心に、まわりに3つの仏像を安置した金堂が3方を取り囲むという伽藍配置は、高句麗の影響を受けたと考えられている。日本書紀には沢山の技術者が百済から訪れ、蘇我氏の氏寺を建立したことが記されている。このような氏寺は他にも、603年に秦河勝(はたのかわかつ)の発願(ほつがん)によって山城に建立された、広隆寺(こうりゅうじ)などがある。廃仏派として名高かった物部氏ですら、実は氏寺を持っていたことが最近明らかになった。624年には全国の寺院が46あって、僧816人、尼569人と記述が残されているが、尼の数が結構多いことに気付かされる。
このような仏教は教義よりも、これまでにない最先端の建築技術による衝撃的ハイセンスと、仏を拝めばハッピーになれるという、分かり易い側面にスポットを当てて、広まっていったと考えられる。当時、倭の建築は掘っ立て柱に板葺きなどで建築されていた。また倭の神々を奉るやしろも、豪華な神社建築などはもっと後のことであり、信仰する大岩や大木にしめ縄をして、神社信仰の拠り所とするような場所が多かった。だから大陸からもたらされた最新技術によって、礎石(そせき)造りの瓦葺き建築が装飾豊かに建立された時のインパクトは非常に大きかったに違いない。
639年には百済大寺(くだらおおでら)という巨大寺院が建立され、法隆寺の5重の塔の2倍の規模を持つ80m以上の高さの9重の塔が、百済河のほとりに高くそびえ立ったという。これは初めての国立の寺院であるとされ、奈良県にある吉備池廃寺という遺跡がそれにあたると考えられている。この寺は天武天皇時代には大官大寺となり、平城京遷都に合わせて新都へ移転、そこで大安寺(だいあんじ)となったとされている。
さて仏像自体にも感心が高まるところだが、実際今日まで代わることなく伝えられた仏像(飛鳥仏)はそう多くはない。特徴としては左右均整で平面的。アルカイックスマイル(古拙の微笑み)などがよく解説にのぼる。例えば飛鳥寺にある金銅仏(青銅の表面に鍍金したもの)である釈迦如来像は、後の火災などによって大きく修繕され、今日ではおそらく眼の辺りと、右手の先の部分だけに、当初の面影が残されているらしい。この仏像は司馬達等(しばだっと・しばたちと)の息子である鞍作鳥(くらつくりのとり・止利仏師)が作ったものだが、彼は中国の南北朝分裂時代の北朝様式を受け継いだ人物で、彼の作った北魏(ほくぎ)様式の仏像としては、他に法隆寺の釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)などがある。
一方南朝の様式を持った南梁(なんりょう)様式は、もう少しお優しい柔らかさを持っているのだが、623年に作られた法隆寺の百済観音像などがある。これは楠木(くすのき)で作られた木造仏であり、210cmの八頭身スタイルに、ギリシア的な傾向を見て取ることすら出来るのかもしれない。他にも中宮寺の半跏思惟像(はんかしゆいぞう)と、広隆寺の半跏思惟像もやはり木造仏であり、右のホッペタに右手をあてるような仕草がチャーミングであると、仏像ファンお涙ものの一品である(?)。こうした仏像は当時は赤を基調にして彩られ、非常にカラフルなものであった。アテネのアクロポリスが当時非常にカラフルだったのと同じように、長い年月が色彩を落として、古代をセピアトーンの世界に代えてしまったのだ。
仏教芸術としては、法隆寺にある玉虫厨子(たまむしのずし)というものがある。厨子とは、ウィキペディアより抜粋するところ、
「仏像・仏舎利・教典・位牌などを
中に安置する仏具の一種。
広義の意味では仏壇も厨子に含まれる。
正面に観音開きの扉が付く。」
ものであり、宝石チックなグリーンに輝く玉虫(たまむし)の羽根を敷き詰めた修飾がなされていたために、玉虫厨子と呼ばれる。ただし、今日では羽根のほとんどは損なわれている。ここに描かれた須弥座絵(しゅみざえ)や扉絵も有名だ。また中宮時の天寿国繍帳(てんじゅこくしゅうちょう)などが当時を代表する仏教芸術として上げられるだろう。
この時期重要な出来事として、602年に百済の僧、観勒(かんろく)が暦法や天文の書を我が国に伝えた。これによって中国で発達した暦法(太陰太陽暦・たいいんたいようれき)が使用されるようになっていった。大ざっぱに言えば、平均29.5日で満ち欠けする月のサイクルに基づいてひと月として数えるのである。(だから暦の月がお月様から来ていることは言うまでもない。)すると1年が354日になって季節と暦がずれてしまうので、3年に一辺の割合で13番目の月を設けて、有無を云わさぬ補正を行うものである。日本では1873年(明治6年)まで太陰太陽暦を使用し続けることになる。
さらに610年、高句麗の僧である曇徴(どんちょう)が紙と墨の製法を伝えたとされる。これによって年代に沿って書き記すということが、初めて可能になった。書物の初期の例としては、厩戸皇子の記したとされる「三経義疏(さんぎょうぎしょ)」がある。法華経(ほけきょう)、維摩経(ゆいまきょう)、勝鬘経(しょうまんきょう)の三経の注釈書で、おそらく610年代に記されたとされている。特に615年に書かれたとされる、法華義疏は聖徳太子真筆の草稿とされるものが残されていて、現存する日本最古の書物らしい。他の2つは写本で今日伝えられている。と、結局仏教から逃れられずに飛鳥時代を終わりにしよう。
2007/09/16掲載