すでに70年代半ばからオペラや演劇がエステルハージ候の中で娯楽の中心を占め初め、ハイドンは作曲家であるより音楽監督として候と関わる機会が増えていたが、何たることか1782年に作曲された交響曲76番以降はすべてが外部からの要請で書かれている。つまり出版譜が出回って各地で演奏されていたハイドンの作品に対して、宮廷の外からの依頼が盛んに舞い込んで来るのがこの時代で、候はこうした作曲家としてのハイドンの活動を全く持って許可していたのである。彼は音楽監督としてはエステルハージ家に雇われながら、作曲家としては半ば独立した作曲家としてロンドン、パリ、ヴィーンなどの公開演奏会と楽譜出版の結びつきから為る市場に足を踏み入れ、特にピアノ・ソナータや弦楽4重奏さらに交響曲の依頼は、各地のハイドンブームに押されて急激に拡大して行くのであった。
一方イタリアでも80年にモデナのフィルハーモニック協会の会員に推薦され、80年代半ばには、ナポリ王フェルディナンド4世からお気に入りの楽器リラ・オルガニザータのための協奏曲の依頼が舞い込み、現在5曲のリラ・オルガニザータ協奏曲が残されている。この楽器は手回しで軸を回転させ弦をこすらせて音を出すハーディ・ガーディみたいなもので、大喜びのナポリ王は宮廷に来ないかと提案したが、イタリアだけでなくスペインでもハイドンの音楽が流行し、スペイン宮廷に勤めていたイタリア人作曲家のルイージ・ボッケリーニ(1743-1805)はあまりハイドンを崇拝している内に「ハイドンの妻」とあだ名されるようになって、アロイジアに嫉妬されて遠路はるばる訪れた妻にいきなり殴られてしまうほどだった。85年に作曲された有名な管弦楽曲「十字架に掛けられたキリストの7つの言葉」はスペインのカディスにある司教座聖堂参事会から委託されたもので、後に弦楽4重奏版だけでなくオラトーリオ化までされている。
アムステルダムや、パリ、ロンドンと云った音楽消費地や楽譜出版の中心地では、ハイドンに承諾のないままに海賊版ハイドン楽譜が大量に出回り、それらを通じてハイドンの名声は次第に高まっていった。パリではコンセール・スピリチュエルで演奏された「スタバート・マーテル」(1767作曲)が大好評を博していたし、とくにロンドンでの名声は非常に高く、すでに重要な音楽会やリサイタルでハイドンの曲が演奏されないと客が入らないほどで、83年にプロフェッショナル・コンサートが創設されたときはハイドンに指揮者の要請が舞い込んだ。その後も89年に出版業者ジョン・ブランドがはるばるハイドンを訪ね、どうかロンドンに来てくれないかとお願いするあたり、すでにロンドンに行けば大成功を納めることは保証されているような有様だった。この時はまだニーコラウス候が健在だったので、ハイドンにエステルハージ家を離れる気持ちは無かったが、その替わりにジョン・ブランドはカンタータ「ナクソス島のアリアドネ」と「トスト4重奏曲」の2番へ短調を手に入れて帰っていった。この弦楽4重奏はハイドンが剃れないカミソリと格闘しながら「イギリスの切れるカミソリと弦楽4重奏を交換しませんか」と提案したのにブランドが飛びついたという逸話が残っているが、そのために「カミソリ4重奏曲(または、そり残しのない4重奏曲)」などと言われることがある。やがてロンドンのフォースター社からも正規の出版申し込みが舞い込んだ。一方距離的には近いはずのヴィーンでの名声はまだ乏しく、この音楽の都ではのらりくらりと80年頃まで筆写譜が幅を利かせていたが、イタリアからヴィーンに移ったアルタリア兄弟が79年から楽譜出版を開始。ハイドンとも交渉を開始して、いよいよ楽譜出版のシーズンが始まった。バロック後期から非常に盛んになった楽譜印刷業は、18世紀前半は海賊版も正規版の区別も曖昧な一攫千金夢見る出版業者がしのぎを削って作曲者に断りのない楽譜を出版するのが当然の社会情勢だったが、漸く18世紀後半になって、次第に出版の承諾や著作権が形を整えて行くことになる。フランスの出版社からも80年代にハイドン楽譜が出版され初め、以後重要な出版社としてハイドンと繋がりの濃いライプツィヒのブライトコップ(ウント・ヘルテルの名前が付くのは95年以降)との交渉も86年から開始、後に出版契約のために仲介を勤めたグリージンガーは目出度くハイドンの伝記を残すことになった。
さて、81年は作品33の弦楽4重奏曲6曲が作曲され、ヴィーンに来ていたロシア大公パヴェル・ペトロヴィッチに献呈されたため「ロシアな4重奏曲」(作品33)とも呼ばれるが、これは82年にヴィーンのアルタリア社から出版され、いよいよ出版を通じてのヴィーンでの認知も高まり始めた。この6曲はすべてメヌエットの替わりにスケルツォ楽章が置かれ、ハイドン自身の予約募集の手紙によると「全く新しい特別なやり口で作曲された」と書かれ、後の研究者ガイリンガーによると、「すなわち、主題の展開が様式的特徴に達し、動機の扱いと転調が結びつきによってソナタ形式の中間部を展開する遣り方は、同時に4つの楽器すべてが同等の重要性を持って諸動機が絡み合い、伴奏声部さえ主題から取られた諸動機に基づいているのである。えへん、えへん。しかもこのようなソナタ形式が1楽章だけで用いられ、緩徐楽章の3部形式では対照的な中間部を置き、続くスケルツォ、最後のロンド形式と多様性も保たれているからすばらしい。」ということだが、予約販売の常套句で記入されただけだと分かって、最近ではガイリンガーの株価が大暴落を起こしたことがあった。80年代初めに年の離れたマブダチとなっていたモーツァルトが、この作品33から霊感を受け、82年から85年にかけて6つの弦楽4重奏曲を作曲し、これが「ハイドンセット」と呼ばれている事は有名な話だ。この6曲はお手紙付きでハイドンに献呈され、「一人前にするまでに私を大分手こずらせた6人の子供達を、指導者であると共に親友でもある貴方の元へ送るなんて、私は幸せ者です」と書き込まれていたが、モーツァルトはまったくハイドンの作品に打ちのめされ、彼のおかげで弦楽4重奏の書き方を理解したと讃え、お馬鹿のコツェール(ピアニスト)がハイドンの曲を非難したときなどは、「君の助太刀なんてまるで役に立ちそうにないんだが、もし私たち2人が共に太刀打ちしたって、彼のイマジネーションには到達できない」と反論した。それに対してハイドンも1785年にヴィーンでモーツァルト親子に会ったときに「神に誓って申し上げますが、私の知りうる限り、息子さんはもっとも偉大な作曲家です。・・・とても親子とは思えない、雲泥の差です。」と余計な事を口走って、作曲家でもあったお父上レーオポルトを泣き笑い状態に追いやった話があるような、無いような。この彼の考えは終生変わることなく、死ぬまでモーツァルトの音楽に敬意を表し続けたハイドンは、自らの追悼式にもモーツァルトのレクイエムが演奏された。
84,85年頃にはパリのコンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックから交響曲の依頼が舞い込み、6曲をパリに送りつけたハイドンは、1787年にアルタリアからこの6曲を出版し、今日「パリ交響曲」と呼ばれている。特に82番は「熊きち」交響曲と呼ばれ熊さんファンのテーマ曲としても巷を賑わすほど有名だ。83番「めんどり(あるいは、「けけっこっこー」交響曲)」もよく知られた一品だ。フランスとの関わりでは、ハイドンの楽団でヴァイオリンを弾いていたトストがフランスで活躍を開始した時に依頼した交響曲88番ト長調と89番ヘ長調が「トスト交響曲」(1787)と呼ばれ、6曲の弦楽4重奏が「第1トスト4重奏曲」(1788)などと呼ばれているし、フランスのドーニ伯爵から依頼された90番、91番、92番の3曲の「ドーニ交響曲」(1788-89)もよく知られている。ここでようやく悪徳の心高まったハイドンはちょいとばかり楽をしようとこの「ドーニ交響曲」を別の侯爵に売り渡してすっとぼけていたら、あまりにもそこら中で演奏されるのであっさりばれて出来の悪い言い訳で狼狽えて見せた。恐らくここで止めが入って、「よっ、ゼッパール」と観客が声を上げるところに違いないが、正しくは市場と戦う音楽戦士として目覚めただけのことである。特にこの交響曲の内92番は、ハイドンが後にオクスフォード大学名誉音楽博士の称号を得たときにも演奏され、「オクスフォードな交響曲」とも呼ばれている。
89年になると高貴なお方からのファンレターが舞い込んできた。マリアーネ・フォン・ゲンツィンガーがハイドンの交響曲をピアノ用に編曲して「どうかしら」と送りつけてきたのである。以後93年に彼女が亡くなるまで、数多くの手紙が交わされることになったが、その間にどえらい事が起こった。90年にニーコラウス・エステルハージ候が72歳の生涯を閉じて、音楽に関心薄い跡継ぎのアントン候が楽団の解散と、ハイドンの楽長職の名誉職化を決行、永年勤めた君の弔いに浸る間もなく、ハイドンは新たなる旅立ちを決意した。
ハイドンが自由になったと聞くと、早速他の宮廷からお呼びも掛かり、ナポリ王フェルディナンド4世も今度こそ来たまえと声を掛けるが、ハイドンはロンドンのヨハン・ペーター・ザーロモンが自ら率いる演奏会で交響曲のプログラムを遣りませんかと言うのに強く引かれ、モーツァルトが、いっちゃあ嫌だい、いっちゃあ嫌だい、と駄々をこねるのをなだめながら、ロンドンに向けてヴィーンを出発した。馬車に乗り込むとモーツァルトはハイドンの顔をじっと見て、「もうお別れになるかも知れません。随分ごきげんよう」と小さな声で言った。目に涙がいっぱいたまっている。ハイドンは泣かなかった。しかしもう少しで泣くところであった。馬車がよっぽど動き出してから、もう大丈夫だろうと思って、窓から顔を出して、振り向いたら、やっぱり泣いていた。何だか大変小さく見えた。小さく見えるのは当たり前だ、モーツァルトは翌年天上に帰っていってしまったのだから。しかし、ハイドンはそんなことに構っては居られない、気持ちはさっそくロンドンに有り、ドーヴァー海峡を渡って初めて見る海に思いをはせて、ドーバー海峡の荒くれの中、かつてのベルナルドーネの海の演技を思い出しては大爆笑し、91年の1月にはロンドンに到着したのだ。付くやいなやロンドンは大騒ぎになった。全新聞ことごとくハイドンの記事を掲載し、貴族達の晩餐会では「あのハイドンにお会いになって」が合い言葉になった。演奏会場では「ゼーッパールゥゥゥ」と黄色い声を張り上げて失神する娘さんまで後を絶たず、あんまり流行るんでハイドンのそっくりさんまで現れる始末(また創作的になってきたな)、王宮演奏会にまで招待された。その頃ロンドンではヨハン・バプティスト・クラーマー(1771-1858)の指揮するプロフェッショナル・コンサートとザーロモン率いるハノーヴァー・スクェアーの演奏会が互いに競い合うように公開演奏会を催していたが、ハイドンが登場するにおよんでザーロモン演奏会は、ドライアイス炊きまくり天上から指揮者ハイドンが宙づりで舞い降りる演出で(嘘を書くなあ。)お祭り騒ぎになった。ハイドンが空中から指揮をすれば(・・・。)、お馴染みのチャールズ・バーニーが「聴衆か狂乱の徒が引き起こす暴動か」と思うほどの熱狂に包まれ、新聞には「空中戦までやってのけた」と讃えられ、3月から6月までの間に14回の演奏会が開かれれば、旧作演奏と交響曲95番96番の新作まで上演され、7月にはついでにオクスフォード大学の名誉音楽博士の称号まで獲得。オペラ上演の話もあり「哲学者の魂」を作曲完成させていたが、これは議会内でロンドンのオペラ上演はパンテオン劇場だけで十分だと国王派が熱を振るい、結局ハイドンのオペラの上演を禁止にしてしまった。そのぐらいじゃ揺るがないハイドンは、9月にはピアノ制作者のジョン・ブロードウッドと知り合い、以後を来年のシーズンのための作曲に取りかかるが、その頃プロフェッショナル・コンサートは昔エステルハージ家にいるハイドンの元に身を寄せ作曲を学んだイグナーツ・プレイエル(1757-1831)を指揮者として招き入れ、「奴の弱点を知り尽くしたお前なら、ハイドンを熊虐めに追いやることが出来るはずだ」と檄を飛ばし、92年度のシーズンは師弟対決と評して新聞各紙大いに盛り上がることになった。こうしてハイドンの語るところ「血生臭くも仲睦まじい」戦いがイギリス音楽界を大いに盛り上げ、2月から6月にかけてのシーズンでは、プレイエルが踏破る千山万岳の烟(けむり)とオケの真中へ出て隠し芸を演じ大いに聴衆を引きつければ、ところへハイドンがすでに95番を済まして、96番を済まして、97番までを済して丸裸の越中ふんどし一つになって、指揮棒を小脇にかいこんで、師弟対決破裂して・・・と演奏会場中練りあるき出した。・・・・と、そんな訳はないが、結局ハイドンの名声が一層高まる結末を見た。ついでに加えておけば交響曲96番は、ハイドンに熱狂する聴衆が前に詰めかけたときに後ろでシャンデリアが転げ落ちてきて誰も死者が出なかったので「奇跡」交響曲と呼ばれたという逸話が残っているが、この逸話はオペラ座の怪人に影響を与えた。(・・・。)さて、仕事を終えたハイドンは心懐かしいヴィーンに向かい、ボンで若き学習青年のベートーヴェンのカンタータを見て「まあ、続けてみたまえ」ぐらいに激励し、フランクフルトでフランツ2世の戴冠式に出席するために来ていたエステルハージ家のアントン候と落ち合った。つい認められたと思いこんだベートーヴェンはほくほく顔で意気揚々とヴィーンに向かい、92年末にハイドンに弟子入りしたが、後にハイドンは目を掛けた弟子の新作が実は昔作曲されたものだと知ると心底がっかりして、2回目のロンドン旅行に連れて行くのを止めてしまったという。
作曲を兼ねた休養のシーズンが終わると、新作の6曲の弦楽4重奏曲(作品71,74)と交響曲99番などを持って再びロンドンに向かったハイドンは、カレー海峡を渡る途中嵐にあったので、嘗てのベルナルドーネの「海だ、これが海!」と演技する横でチェンバロを叩きつけた時のことを思い出し、前回同様、甲板で必死に作業をする荒くれの中にあって、一人で腹を抱えて大笑いを続けたので、よっぽど悪魔が取り付いたかと思われたものだった。しかし心の内には悲しみもあった、93年初めには手紙の遣り取りをしていたマリアネ・フォン・ゲンツィンガー夫人がお亡くなりて、ロンドンに旅だった途端に今回の旅行を認めてくれたエステルハージ家のアントン候までも亡くなってしまったからだ。こうしてハイドンがロンドンにいる間にエステルハージ家はニーコラウス2世が即位し、新しい時代を迎えつつあったが、94年シーズンの開始と共にハイドンに感慨に浸る時間は無くなった。プロフェッショナル・コンサートでは相変わらず弟子の作品が上演され、しかしハイドンの人気も全く揺るぎ無く、ヴィーンから持ってきた新作の他にも交響曲100番、101番「時計」などが完成即上演された。しかし翌年95年にフランス革命に絡んで大陸の歌手や演奏家との契約が結べなくなったので、ザーロモンはオペラ座に演奏会場を移して、イギリス在住の演奏家を動員したオペラ・コンサート(オペラ劇場でのコンサートの意味)を開催する事を決定、もはやプロフェッショナルもザーロモンも関係なく、互いに手を握りあい、コンサートマスターをクラーマーが勤め、指揮をヴィオッティが、独奏器楽奏者としてザーロモン、デュセックなどが参加、作曲家にはハイドンだけでなくクレメンティなども参加して挙国一致シーズンを開催することになった。こうして交響曲では104番までが上演され、大いに収益も上げたハイドンは95年の8月終わり頃、ヴィーンにご帰還遊ばしたのである。
今度もヴィーンに戻る途中寄り道をしてハンブルクに大バッハことCPE・バッハ(1714-88)を訪ねた所、一人娘が出てきて「家も1788年にお父さんがお亡くなりてから、皆さんが思うほど暮らし向きが豊かにのうて」とおしゃべりを始めるので、ハイドンは慌てて逃げ帰って、新しい君主ニーコラウス2世の元に参上した。ロンドンで楽団再編成と楽長職再任を希望された時には、ただ手紙で「有望有望」と書いて送っておいたが、ニーコラウス2世は会うやいなや「愉快愉快」と歩み寄ってハイドンに握手を求めるので、ハイドンもつい後先考えなく気を許して手を握ってしまった。こうして1796年にアントーニオ・ドラーギのオペラ「ペネローペ」で再建エステルハージ楽団及び合唱団が結成され、老いてなお健在の「ジジ・ハイドン」を音楽監督に開始を告げた。しかし夏から秋にかけてエステルハーザ宮殿に滞在する以外はヴィーンで過ごすことの多いニーコラウス2世の性質と、ハイドン自身が雇用条件を加えたことにより、生活はもっぱらヴィーンで送ることになった。しかし新しい君主は野卑な、軽躁な、暴慢な悪風を身につけていたらしく、ずっと後にベートーヴェンがハ長調ミサを候のために演奏したときもフンメルと共に作曲家に聞えるか聞えないかの声で「えっ、どうだか。」「・・・全くです・・・知らないんですから・・・罪ですね」「まさか・・・・」「・・・転調して・・・」「クレドも?」などとささやき合ってベートーヴェンをさんざん苛立たせたあげく、「すみませーん。」とわざと大きな声で呼んで、「貴方がこのミサの中でもう一度懸命に追い求めた真理というのはいったいどこですか?」と質問して大王を徹底的に怒らせてすたすた帰らせた事があったが、この場合も実は候はハイドンの音楽に関心があるのではなく、ただ名声溢れるハイドンを手元に置いて自慢したいだけで、彼の作曲には多大の関心を払っていなかったという噂もある。ある時などは「君も弟ミヒャエルのような偉大な教会音楽家を持つと、いろいろ癪に障ることもあるだろうが、才能が違うのだからここが我慢だと思って、分をわきまえたまえ。」などと言うので、久しぶりに若き日のゼッパールの反骨心の蘇ったハイドンは、狭い事に掛けては針の穴をも通さないニーコラウス2世の魂でさえも揺さぶって見せましょうやと意気込んで、96年から6曲のミサ曲を作曲し始めた。しかしその結末は悲惨である、ハイドンは弟子であるベートーヴェンに先んじて「君がこのミサでもう一度遣ろうとしたことは、いったい何だったのです???」と言われ、脳天が活火山になったまま、岩石蒸気にまで到達してしまった。
しかし候が認めようが認めまいが、世間様はすでに認めてくれている。エステルハージ家に対する仕事は毎年1作のミサ作曲に限定し、もっぱら外部に向かって作曲を続け、1797年にはエルデーディ伯爵に(見立てたオケヘムの霊魂に)献呈された6曲の弦楽4重奏曲(作品76)を作曲、これは「エルデーディな4重奏曲」と呼ばれている。特に第3番の2楽章には、少し前イギリスの国歌をまねて作曲したオーストリアのための国家「神さまよ、どうか私たちの皇帝を守ってくれろ」の旋律を使用した変奏曲を織り込んだ。彼はこの国歌のために皇帝からありがたくも金の小箱を頂いたが、それは皇帝の肖像入りだったので、皆がいないのを確認してこっそり自分の想像画にすげ替えて「私も皇帝だ!」とぽつりと呟いてみた。そういえば、後にベートーヴェンも「私も王だ!」と怒鳴ることがあったが、師弟は幾ら反駁し合っても似たもの同士ということか。
イギリスでヘンデルのオラトーリオに接して老体の心大いに宗教心沸き起こり、96年には「十字架7言葉」に歌詞を付けていち早くオラトーリオ化したハイドンだったが、続いてロンドンで手に入れたミルトンの「失楽園」に基づく「天地創造」の台本にのめり込んだ。しかし英語で作曲するにはあまりに英会話を疎かにしすぎた、こんな事なら駅前留学でもして兎の縫いぐるみでも貰っておけば良かったと悩んでいるところに、ゴットフリート・ヴァン・スヴィーテン男爵(1733-1803)が「助太刀、助太刀」と勇ましく飛び込んで来る。彼はイギリスに出張してはヘンデルオラトーリオに感銘を受け、またオーストリア大使としてプロイセン王フリードリヒ2世の元に派遣された71年から77年にかけては、親子両バッハの音楽に心底感動し、セバスチャン・バッハの曲をヴィーンに持ち帰ってきた男で、さっそくハイドンのためにこの英語台本のドイツ語翻訳を行い、同時に貴族達から資金を集めて上演の費用を捻出した。スヴィーテンの自ら書いた8曲の交響曲にお世辞を使う気にはなれないが、それでもハイドン先生大いに感謝し、古典的作品だけを上演するヴァン・スヴィーテンの音楽会で、オラトーリオ「天地創造」が1798年に上演される運びとなったのである。この時ハイドンの指揮の前にいて、ピアノに座って演奏を行ったアントーニオ・サリエーリが、どうも後ろめたそうに目を合わせない。「こいつは怪しい」と思ったハイドンが、上演後の拍手の中で「お前がやったか!」と怒鳴り付ければ、奴さんすっかり狼狽えて「全く薬の加減だね、どうも嫉妬って奴は、天才でもモーツァルトでも毒殺しかねないから。」と告白するので、ついに警察が来る大騒ぎとなって、最後にはサリエーリ氏精神病院に封じ込められたという逸話は、今日ではすっかり否定されている。翌年99年には公開初演も行われ、大成功の情熱が世界各国に演奏会を開かせた。
この前後にはフランツ・レッセルと、ザルツブルクから遣ってきたジギスムント・フォン・ノイコムが、弟子として晩年のハイドンの生活を支えたり、ライプツィヒの出版社ブライトコップ・ウント・ヘルテルとハイドンの交渉を任されたグリージンガーと緊密な関係を築き、このグリージンガーはハイドンの死後1810年に「ハイドン」の伝記作者となるのである。一方ヴァン・スヴィーテンも燃えたぎっていた。「これでオラトーリオはまだ10年は戦える。」と天地創造に強い手応えを感じた彼は、早速トムソンの翻訳に基づく「四季」の台本を作成、ハイドンも全精力を傾けて最後の炎を燃え上がらせていると、その最中1800年のある日、すでに別居中だった妻がとうとう亡くなったという。手を叩き足でリズムを取るハイドンは、漸くのこと呪われた音楽の悪魔が消え去った爽快感を味わい酒を持ち出して祝ったが、さすがに自らの高齢を考えると、かつての愛人ルイジア・ポルツェリと再婚する気にもなれず、他の愛人との噂も消えず、彼女に宛てた手紙にはただただ「残念、残念、遅すぎた。」と書き記したが、この手紙は後に弟子のベートーヴェンによって別の形で今日に伝わっている。いずれ、こうした出来事の中で最後の気力を振り絞って完成させたオラトーリオ「四季」が、1801年の春についに完成すると、初演、再演ことごとく大反響を巻き起こした。この熱気の中で1803年の12月まで諸作品演奏のために指揮を行ったハイドンだったが、ついに自らの締めくくりの為に最後の作品に取りかかった。それは2楽章で完結した弦楽4重奏に「辞世の句」を付けた前代未聞の複合作品で、この弦楽4重奏作品103は、2楽章の終わりに「私の芸術はこの作品途中に過ぎ去るべし、流るる年月と衰え行く我が魂と共に、納め歌!!!」と書き込まれ、演奏者は、2楽章が終わったところで立ち上がると、この辞世の句を叫び、悲痛な面持ちでろうそくの火を消して、演奏会場を立ち去らなければならないのだ。(ああそうですかい。)
「引退引退、愉快愉快」と一人で呟いてみたハイドン先生、金輪際新曲は書かず、指揮もとらず、もっぱら旧作の編曲や改訂により自らの作品を完全なものとした。そろそろエステルハージ家の楽長も誰かに引き継がせようと考えていると、丁度あつらえの人物が浮かんだ。1800年にナポレオンの軍隊にザルツブルクの家を荒らされて「貴様らは盗人か!」と叫んだものの、家財を持ち逃げされていた弟のミヒャエル・ハイドンを呼ぼう。彼の宗教作品を好むニーコラウス2世にも依存の有るはずは無い。彼が相談すると、大喜びで彼を呼び寄せるニーコラウス2世だったが、塩の町ザルツブルクを離れられないミヒャエル・ハイドンは最後の土壇場でその地に踏みとどまり、結局エステルハージ家には遣ってこなかった。こうして偉大なハイドンの地位は、1804年ヨハン・ネーポムク・フメル(フムメル)(1778-1837)が楽長に就任することで折り合いがつくことになる。1805年にはエステルハージ家の筆写譜係だったエルスラーの息子でハイドンと共にロンドンに付き添ったエルスラー・ジュニアと一緒に自作の作品目録を作成し、後に「エルスラー・ハイドン目録」と呼ばれることになったが、この年末の弟エヴァンゲリストが、翌年にはミヒャエルがと、二人の弟が立て続け亡くなり、さらに1808にルイジ・トマッシーニまでお亡くなりて、さすがのハイドンもすっかり意気消沈してしまった。しかし彼には最後の役目があったのだ。「わたしには、まだ、遣らなければならない仕事があるのだ。」と言い残して家を出ると、1808年の3月27日「天地創造」の演奏会に出席し、世間様に向かい最後の挨拶を済ませるのである。演奏が始まり丁度「光あれ!」の所に達し熱狂した聴衆から拍手喝采が沸き起こると、ハイドンは感極まってついぴょこんと席を立ち上がった。目を上げれば皆、自分の方に向かって拍手を投げかている。「我が作曲に悔い無し」と満足したハイドンは悠々と両手を上げて、「光あれ!」の音楽に対して光差し込む天窓に向かって「あそこからだ!!!」と叫ぶと、どうも驚く、窓からベートーヴェンが覗いて口をあんぐり開けてきょろきょろしながら演奏会場を見物しているじゃあないか。聴衆はさすがは師弟愛が成就されたと勘違いしてさらに熱狂する中にあって、何じゃこりゃと大いに狼狽(うろた)えたハイドンも、こんちきしょうめ、これからは奴の時代なのかと悟り、第1部が終わると発作を起こして泣きながら家に連れられてしまった。
とうとう最後がやってきた。1809年の初めにフランス軍がオーストリアを占領し、5月12日には偉大な皇帝ナポレオンが、半ば上を見上げて己惚れ顔でヴィーン城門に向かって歩みを勧めると、周りに花をあしらった乙女達が彼にまとわりつこうとするが、彼は気が付きもせずやり過ごし、入り口の中に入っていくという、パルジファル伝説を物まねした入城儀式によって、たまらなく嫌な演出を見せてヴィーン入場を果たした。(嘘つきの予感が。)この呪われた演出を見たハイドンは、今まで散々砲弾の音に魂を揺さぶられて衰弱していた魂が衝撃ですっかりやせ細り、使用人達が泣きながら「先生、先生」と寄ってくると「ハイドンが居る限り、このハイドンが居る限り、私のヴィーンは安泰なのだ、ハイドンの都こそ我がヴィーンなのだ!」と訳の分からない事をうわごとのように繰り返し、体をわなわなさせていたが、これを見かねた心の一番弟子ベートーヴェンが、先生どうか後のことは私にお任せ下さいと、夜中に不意を打ってハイドンの家付近で大砲を一つばかり「どどーん」と打ち鳴らしてみた。「どどーん、どどーん」と寄せて返す音の、何だか妙な気になる。少しく大きくなる音には心構を構えて準備も出来る、ほどよき音量で始まってくれれば、驚きを吸収する心のゆとりもまだ生まれる、しかし突然として轟く巨大な夜中の音量は、いかなる丈夫の魂さえも揺さぶる力が籠もり、驚きの大いなるほど、衝撃もまた大きい。この急なる大砲の轟きにすっかり慌てふためいたハイドンの心の臓は、かかる瞬時をもって衝撃に振り子の針が折れ、そろそろ潮時かと自ら活動を停止したのだった。翌朝驚きの刹那が静止したかのような彼の目を閉じさせた後、慎ましい埋葬が行なわれ、追悼式で漸くハイドンの死を知ったヴィーン中の人々が、モーツァルトのレクイエムの中最後の別れを告げた。もちろん云うまでもなくベートーヴェンも涙を流したのである。
後に例のニーコラウス2世が彼の遺体を望みどおりアイゼンシュタットに移してやろうとしたところ、墓の中の遺体に首がないという珍事件が発生。これは刑務所管理のヨハン・ネポムーク・ペーターと言う奴がハイドンの首から上をお持ち帰りて、綺麗な骨の標本にして散々形態などを観察した挙げ句、ハイドン大好きっ子だったカール・ローゼンバウムがこれをお貰いて、ニコラウス2世が懸命にこれを買い戻したら、実は偽物だったり、そのうちにこの頭蓋骨が夜中に叫び出すとか、いろいろ逸話を残しつつ、ようやく1954年に本体と結合させて貰ったという。果たしてその首は本当に本物なのか、ハイドンの首だけ旅行も、長き年月を経て、終わりとなったようだった。目出度し目出度し。
2005/04/23
2005/05/11改訂