第14-1章フランツ・ヨーゼフ・ハイドン
(1732-1809)Franz Joseph Haydnの生涯、前半

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フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)Franz Joseph Haydn

 まあ、なんちゅうか、大作曲家を点で結ぶ音楽史、誠に結構じゃありませんか。だいたい大作曲家の作品自体知らないんですから。ここでは、まことしやかなる逸話満載の当時のハイドンの伝記精神に乗っ取って、大いに想像をたくましくして悪のり風味でお送りしてみます。ご注意下さい。

ワンポイントJ缶

・やあ、しばらくぶりのジョスカンだよ。ルネサンスから遠ざかったからって僕の音楽を、忘れては居ないだろうね。今日はハイドンの年号だ。
「人並みに(1732)苦労を重ねたゼッパール、漲る音楽岩をも砕く(1809)」
どうも名前の割には特定の曲しか聴かれない傾向があるけど、彼はモーツァルトと共に時代を代表する作曲家だ。いろいろな作品に手を出して欲しいな。それじゃあ、また。

誕生(1732-1738春)

 ヨーロッパの地図を眺めてヴィーンから南西に視線を移して行くとノイジードラー湖が目に飛び込んでくる。その北端付近に位置するローラウの町から羽ばたいたフランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809)は、後にエステルハージ候の宮廷とロンドンで活躍し古典派を代表する音楽家と讃えられるのである。もっともフランツという名前は自分でも通常使用しなかったらしいからヨーゼフ・ハイドンでも結構だ。彼の誕生以前に遡って生涯をいい加減な心持ちながら追跡してみよう。
 父方の先祖は、1683年にヴィーンを包囲したトルコ軍に打ちのめされ家財を失いながらも、ローラウの町より北方にあるハインブルクで車大工を営む小市民だった。母方の祖先は、ハプスブルク家に反旗を翻すハンガリー人達によってローラウにあった家や財産を失いながらも、苦労を重ね生活向上を目論むひたむきな小市民だった。こうして境遇だけは似たもの同士の2つの家系から、まず車大工の父マティアス・ハイドン(1699-1763)が現れ、ハーラッハ伯爵の宮廷料理人をしていた母マリア(1707-1754)と結婚して、マリアの住まうローラウに居を構えたとき、馬車などの補修を行う車大工の仕事をこなしながら、農園に葡萄園を営みワイン製造も行う勤勉なマティアスは、後に市場裁判官として領主ハーラッハ伯爵の元に住民のご報告に向かうぐらいに中途半端な出世を遂げるに至った。(大きなお世話だ。)この2人は当時の標準的夫婦として12人の子供を産んだが、そのうち成人したのは6人、まず誕生した長女フランツィスカ(1730誕生)の後を追って、腹の中に控えていた長男フランツ・ヨーゼフは、月満ちると「さん、にい、さん、にい、いち、ぜーろ」と掛け声よろしくこの世に産声を上げる心積もりで準備を整えた。もちろん1732年3月21日に誕生して偉大なバッハの誕生日に合わせ敬意を表し、ついでに数字の語呂を踏まえようという魂胆だが、母がまだ駄目だ、まだ駄目だと身をていして抵抗するので、つい10日間も予定が狂って1732年の3月31日に誕生となってしまった。生まれた赤ん坊、大いに落胆してありったけ泣き叫んだら、両親は元気の良い子だと大いに喜ぶ。おまけに洗礼日がエイプリルフールの4月1日とは何たることか。このため今日ではもっぱら日本の起業家達が決算期の作曲家として、会社にハイドンの交響曲を鳴らして親しんでいる伝統があるが、一方12月期決算の多い欧米ではこの名称は通用しないから注意が必要だ。
 ヨーゼフのオーストリア風愛称はゼッパールと言うのが普通なので、彼は生まれるやいなや「ゼッパール」と呼ばれ大切に育てられたが、上の名前HaydnはしばしばHaydenつまり「異教徒」と記述され後には幾分難儀な思いもした。幼少の彼は、楽譜が読めないものの音楽好きだった父親がハープに合わせて歌うのを真似て、また家族で民謡などを合唱をしている内に音楽の魂が育まれたかは知らない。いずれ学校の存在しないローラウに居ては、領主に仕える車職人の後を継いで、父親譲りのならず者に成ってしまうと心配した両親の決断で、ハインブルクに居る親戚のヨハン・マティアス・フランクに預けられることになった。マティアス・フランクはハインブルクで学校校長を務めながら二つの教会の聖歌隊長でもあったので、母も初めは反対したものの、結局ハインブルクに養育費を送りながらゼッパールの成長を見守る決心をしたのである。

ハインブルク時代(1738春-40秋)

 父方の親戚が沢山巣食うハインブルクで想像を絶する仕事量をこなすマティアス・フランクの元、ゼッパールも両親恋しと嘆く暇(いとま)もないほど多忙な生活が待っていた。朝の7時から15時までが学校の勉強で、その後ミサに出かけ、居候のフランクの家では様々な家事にこき使われる毎日。しかし教会音楽は充実した器楽を動員できる環境に恵まれ、、フランクは非常に豊かな筆写譜のライブラリーを持って居たから、自ら歌いまた筆写を任される間に、ゼッパールの魂が漲(みなぎ)らないはずはなかった。他にもフランクは多くの管楽器と弦楽器の演奏を学ばせたし、鍵盤楽器にも手を染めたかもしれない。しかし、程なくヴィーンの中央に我を見よとちくちく尖塔がそびえ立つシュテファン寺院の聖歌隊長に就任したばかり(?)のヨーハン・アーダム・ヨセフ・カール・ゲオルク・ロイター(1708-72)が、上司たる父親の代理として優秀な聖歌隊員発掘の旅に出かけてはハインブルクを訪れ、偶然若きゼッパールに目を止めたのがきっかけで、ハイドンは願ったりシュティファン寺院の聖歌隊に入隊することになったのである。一説にはサクランボを大量に与えて、「ほら、ヴィーンではこんなに沢山の美味しいものが目白押しだ」とハイドンを騙して頷かせたという説もある。

シュテファン寺院合唱隊(1740-49)

 ゲオルク・ロイターの寄宿住宅に聖歌隊員及び先生達が生活を営むシュテファン寺院隣接の施設に潜り込んだハイドンは、一緒に住む2人の教師によって合唱だけでなく楽器の演奏を習い、特にヴァイオリンとクラヴィーアは教育上重要な楽器だった。ヴィーンでは古様式の大家としてルネサンスを越えた作曲家パレストリーナの音楽が聖歌隊によって歌われ、1725年には古様式精神をかみ砕いたフックスによって対位法の教科書「グラ-ドゥス・アド・パルナッスム」が出版され、「カノンミサ」のような古様式的バロックミサ曲なども歌われた。一方巷にはヘンデルやヴィヴァルディーの音楽や、さらにサンマルティーニ見たような器楽曲のシンフォニを世に問うて活躍を開始していた、ゲオルク・クリストフ・ヴァーゲンザイル(1715-77)、ゲオルク・マティーアス・モン(1717-50)、そして例のゲオルク・ロイターら前期古典派の旗手達と後に噂される一群の作曲家達が活動を開始、宮廷はイタリア人作曲家が目立つものの、ヴィーンの音楽は大いに華やいでいた。
 さて、聖歌隊員として教会音楽を歌う一方、学校オペラへの応援や、マリア・テレジアのさばるヴィーン宮廷での宮廷楽団に参加しての合唱や、貴族達の館での合唱など、様々な形で音楽に接したハイドンは、作曲の勉強などもちろんさせて貰えなかったが、そりゃあ聖歌隊員なんだから当たり前じゃないか。例えばヴィーン少年合唱団が作曲家の要請の為に有るわけでも無かろう。子供心に大いに楽しかったのは、シェーンブルン宮殿で合唱があった場合などで、ゼッパール大将以下大多数の子供達が隊列を組んで庭園を練り歩き、二手に分かれ戦闘を繰り広げては、暴れ回って銅像の首をもいだり、噴水の魚を捕まえて焼いて食ってはしかられたりと大忙し。(そんな逸話はないはずだ・・・。)また、少年血気溢れるものであるから、貴族館での演奏においては美味しい食事に飛びかかり、日頃の貧しい食事の憂さを晴らしては行儀が悪いと叱られもした。ついに1745年に弟のミヒャエル・ハイドン(1737-1806)が合唱団に入隊して来るにおよんで、兄の悪戯は頂点を極め、13歳のゼッパールは自らの威信に掛けて隠れ家の基地を紹介したり、チェンバロの中に菓子を隠したり大いに感化を加えたが、これを見ていた弟は「僕がしっかりしなくちゃ駄目だ。」と心に思うところ有り、まっとうな道を歩む決心をした。すなわち兄より美しい歌声を披露し、ついには声変わりで駄目になった兄の独唱者の地位を奪い取ってしまったのである。
 その少し前にクロイターはハイドンを玉切りよろしくカストラートに仕立てようと企てたが、噂を聞きつけた父親が真っ青になってヴィーンに乗り込んで「玉はあるか、玉はあるか」と叫ぶので、折角の名案が藻屑と消えたクロイターは急転、ゼッパールが友達の髪の毛を悪戯に切り落とした咎(とが)でハイドンを責め立てて、とうとう合唱団を追い出ししてしまったのだ。(自ら語るところによると)1749年の11月の雨の降る宵のヴィーンに投げ出されたゼッパールは、わずか17歳で路上に放り出され、それにつけてもロイターの不人情が胸にむかむかする。あんちくしょう、そう云えば前に情熱だけで12声(16声?)の「サルヴェ・レジーナ」を作曲していた俺を捕まえて、「貴様のような悪戯坊主には2声が精一杯だ」と楽譜を取り上げて大笑いしやがったな、今に見ていろ「げっ、おる、黒いター」め。そう奮発したかどうかは知らないが、恐らく合唱団を追い出される前後のことだろう、マッテゾンの「完全な楽長」やフックスの「グラードゥス・アド・パルナッスム」を読みあさって独学で、作曲の勉強も開始していたのである。ただしヴィーン放浪時代までの話は、ほとんど本人が後に書いた記述と数多くの思い出話だけで再構成されているから、信憑性はどれほどもものか分からない・・・・大河ドラマにしたらさらに逸話を好き放題投入できることだろう。

ヴィーン放浪のハイドン(1749-1759)

 これまでの生活にとことん鍛え上げられたハイドンは負けなかった、ばったり出会ったミヒャエル教会の聖歌隊員ヨハン・ミヒャエル・シュパングラーに事情を説明して、生活費は自分で稼ぐのでどうか夜露を凌ぐ屋根裏でも貸してくれと頼めば、生まれたばかりの子供を持つ大変な時期のシュパングラーだったが、「了解了解」と快く屋根裏を提供し、「愉快愉快」と礼を言って住み込んだハイドンはその日からシュパングラー家の屋根裏に生活をしながら、夜ごと現れる数々の動物たちとチェロを奏でたとか、そんな逸話はお前の妄想だとか・・・。ヴィーンの市内を賑わす野外セレナーデ合奏団ガサティムに加わってお金を貰い、またダンスの伴奏や様々な作曲によって貧しい生活費を捻出し、その間に民衆音楽の持つヴィーン的性質までも吸収してみせた。
 しかしシュパングラーに2人目の子供が出来ると、ハイドンの屋根裏さえも必要になったので「どうですか、そろそろ独り立ちしてみては」と遠回しに退去を勧めるのだから是非もない、1750年の春には取りあえずマリアツェル村へ向かう巡礼ツアー「巡礼教会グナーデンに行って得を積もうご一行様」に参加し、当地教会の合唱団員を縛り付け倉庫に投げ込むと、変わって自らが合唱団に紛れ込み美しい声で合唱し、神父に認められて1週間ほど聖歌隊に加わって、心を清め賃金を貰ってヴィーンに帰って来た。ところに知り合いのヴィーン商人であるアントン・ブーフホルツが、「君の向こう見ずな悪戯心と勤勉を兼ね揃えたバイタリティーに関心したから、利息を期待しない投資をしてあげよう」と言って150フローリンもの金を貸し与えて呉れたので、彼と神に感謝を捧げつつシュパングラーの家を後にしたのである。なお、この時期の作品として最初期の ミサ曲「ミサ・ブレヴィス」(1749-50頃)が残されているが、彼は後に1805年にもなって、若き日を思い出しながらこの曲の改訂を行った。
 屋根裏の部屋ありますの募集を探し回り、屋根裏住人にヴィーン最下層の職人、料理人、種々職人達の溢れかえるミヒャエラーハウスの6階に潜り込んだハイドンは、暖炉も無く鍵盤楽器は虫食いのクラヴサンという気楽な一人暮らしを開始、いよいよ真の作曲勉強を開始することになった。つまり先ほど上げた2冊の教科書と、ケルナーの「ゲネラルバス教程」を事細かに研究し、そのうち名声高いカール・フィーリプ・エマーヌエル・バッハのソナータの楽譜を手に入れて、鍵盤に触れた途端に落雷脳天を打つがごとく、体が熱くなり弾き終わるまで鍵盤から体が離れなくなってしまった。「己の感動あらざれば、いずくんぞ他人の感動を知らんや」というCPEの名言がハイドンの頭を駆けめぐる、青年血気に溢れついに屋根裏を飛び出し、喜劇役者のクルツ・ベルナルドン(ベルナルドーネ)を窓の外からヴァイオリンを掻き鳴らしておびき出し、オペラを作る約束までも取り付けてしまった。こうして目出度くジングシュピール「びっこの悪魔」が作曲されることになったが、2人とも一つ困ったことが出てきた。「おい、お前海という奴を見たことがあるか。」とベルナルドンが聞けば、ハイドンは「いや、ノイージドラー湖なら見たことがあるが。」と答える。「そこに、嵐と波はあるか、船が難破して、岸に打ち上げられるか。」と云う事になって、つまり2人ともどうしても海の嵐が理解できないのだ。思えばヴィーンは山々に囲まれた盆地の中央に有り、仕方がないのでベルナルドーネ大いに想像をたくましくして、両手を振り回して大暴れをしながら、「山が轟くそばから谷となり、谷は落雷と豪雨の中で巨大な波となって一気に膨らみ、再び山となってとって返す、稲妻が、潮水が襲って、悪魔の家での気違いパーティーまっただ中だ!」と叫ぶのに合わせて、ハイドンも鍵盤の上で腕を波のように上下すれば、してやったり最高の場面が完成し、1752年にはヴィーンにあるケルントナートール劇場で上演され、成功を収めることができた。なに、ヴィーンの皆さんも多くは海を見た事がなかったのだ。
 彼がミヒャエラーハウスに居を定めたのは活眼だった。オペラ・セーリアの台本によってセーリアの標準作曲法を規定したとも言われる大御所ピエートロ・メタスタージオ(1698-1782)が3階に住んでいて、友人の同居人であるスペイン人ニコラス・デ・マルティネスの2人娘の音楽教育のために、屋根裏音楽家であるハイドンを紹介したからである。こうして彼はメタスタージオと大いにお近づきになりながら、娘のマリアンネの教師として3年間ただで食事を貰う事が出来、幼き日より慢性に続く栄養失調から脱出することが出来たのである。「私は食べ物の誘惑にあっては、どんな仕事も断らないでしょう」ある時冗談でハイドンは友人に打ち明けた。このマリアンネは後にピアニスト、歌手としてだけでなく、作曲家としても活躍するほどの成長を見せ、歌のレッスンのためにすっかり老いぼれた駄馬のニコーラ・ポルポラ(1686-1768)の元に通っていたので、伴奏者としてマリアンネに付き従ったハイドンは、1752,3年頃ついでにポルポラのもとで下働きをしながら、作曲や声楽を伝授して貰う事にした。「君作曲をした事がありますか」と聞くから、「あんまりないが、聖歌隊に居た頃、独自の方法でミサ・ブレヴィスを作曲したことがある。それから最近ではベルナルドーネと組んで「びっこの悪魔」を上演したが、観客の心を掴んでしめたと思ったら、ぽちゃりと落として白けてしまったが、これは今考えても惜しい」と言ったら、ポルポラは薄汚い歯を見せびらかしてげへへへと笑った。「それじゃ、まだ作曲の味は分からんですな。さっそく伝授しましょう。」とすこぶる得意である。こうしてハイドンの作曲家の道も次第に本格化してきた。
 このポルポラは心底嫌なやつだったし、1754年には母親も亡くなったが、良いこともあった。ハイドンの作曲に興味を持ったトゥーン伯爵夫人が、彼を声楽と鍵盤の教師として雇ってくれたのである。ハイドンは夫人の名前を旨く発音できなくて、「ですが、トーン伯爵夫人」と答える度に夫人が顔を真っ赤にして怒り「ナイーン、ニヒツ、トーン、トゥーン、トゥーン」と叫んだという逸話が残されている。(そんな馬鹿な。)そのうち、帝国の陸軍中佐の職にあったフュールンベルク男爵も彼に関心を示した。音楽好きの男爵は自宅で音楽会を催し、後のベートーヴェンの対位法教師を勤めるアルブレヒツベルガーなどもそこでチェロを演奏していたのだが、この男爵の演奏会のために初めての弦楽4重奏が作曲された可能性が高い。ただし原題はディヴェルティメントで室内合奏曲ぐらいの意味である。この男爵は無闇にハイドンの音楽が気に入ったらしく、初期の交響曲の手書き譜なども彼のコレクションの中から見つかっているから、最初期の交響曲はここで生まれた可能性も否定できない。その他にも仕事は何でもやった、教師もやった、合奏団で演奏に参加した、もちろん作曲もした、こうして彼はヴィーンで50年代の多くを費やした。その頃、この時期の名声では弟の方が大ハイドンだったとの噂も聞えるミヒャエル・ハイドンの方は、1757年にハンガリーのグロスヴァルダインにある司教教会の聖歌隊長に就任、1763年からは生涯を全うするザルツブルクに向かい、大司教シギスムントの宮廷音楽長兼合奏長になった。以後81年に教会オルガニストに就任すると、大量の宗教曲を書いて、モーツァルトのお父上の嫉妬を煽ることになるのである。

モルツィン伯爵家楽長時代(1759-1760)

 1759年になるとフュールンベルク男爵が「ヒュールリー、ヒュールリーララー」と現れ扉を叩き、恐らく彼の推薦で目出度く西ボヘミアのルカヴェツにあるモルツィン伯爵の楽長兼作曲家として年間200グルデンの給料の出る初めての定職にありついた。ここで彼はセレナーデやターフェルムジーク、ディヴェルティメントなどを作曲し演奏。ハイドン自身晩年に語るところによると、初めての交響曲はここで作曲された。(うんにゃ、最初の交響曲はフュールンベルク邸で演奏された、とする説もある。)しかし日常生活はバラエティに溢れていた。車大工の息子とはいえ乗り付けない馬は楽器のようには旨く操れなかったらしく、伯爵のお供をした狩りの席では、兎飛び交う森の中を鹿に当たって馬から転げ落ち、馬鹿にした兎が待ってましたとハイドンの頭の上に飛び乗ったので、伯爵および狩りの一同から一斉に笑われ、金輪際馬に乗らない決心をした。別の時には、伯爵夫人の歌の伴奏中にうっかり伯爵夫人の肩掛けが外れて、ウブなハイドンは不意に目の前に現れた、たわわな実りに大いに取り乱し、「あら良い青年が、真っ赤な顔をして、演奏まで止まってしまうなんてだらしがありませんね。」とからかわれては、「で、ですが、伯爵夫人、いったい、いったい誰が取り乱されないで居られましょうか!」と素っ頓狂な声を張り上げてまたしても大いに笑われてみた。しかし、そんなハイドンに一世一代の大不幸が足音を偲ばせて近づいていたのである。それを大分捏造してお送りしよう。
 1760年、男28歳にして遂に恋愛に目覚めたハイドンの心は大いに動揺した。カツラ職人ヨハン・ペーター・ケラーの娘であるテレーゼに恋をしたのである。花を贈って恋文書いては、待ち伏せて詩を朗読し、愛を打ち明けるハイドンだったが、テレーゼはなかなか首を縦に振らない。仕舞いには「私は修道院に参りますから、これ以上構わないで下さいまし」といって立ち去ってしまう。要するに嫌われたようなものだった。それでも追いかけて、夕方薄暗い中を庭に入り込んで、窓のしたから威勢宜しく愛の告白を続ければ、あんまりうるさいので呆れたテレーゼから「しかたがありません。今夜ベットの中でお待ちしております。」との返事があった。「ついに、ついに願いが通じたのだ。俺も今日から一人前の男性の仲間入りだ。やっほーい。」と思うほどウブな年齢でもなかっただろうが、ハイドン先生大喜びで夜を待ちわびていた。彼は知らなかったのだ、あまりしつこい勧誘に参ったテレーゼがお姉さんに相談したことが発端となり、何時しか聞き役に回っていた姉さんがハイドンに恋心を抱いていたのを。先生のために細かいいきさつは差し控えるが、何も知らないハイドンが不二子ちゃん目がけて突進するルパンのごとく部屋にはいると、薄暗い中に向こうを向いて横たわる女性の姿、「部屋を暗くしてくれなくちゃいや」と言うので、「はいはいこれはすみません。」とろうそくの明かりを吹き消して、とうとうベットに潜り込んだところ、真っ暗な中では顔も確認できず、疑いもなく、くんずほぐれつしてみた。翌朝日が差して目が覚めてみれば、どうも驚く、光の下に現れたのはテレーゼの姉の31歳の売れ残り、ハイドンより3歳年上のマリア・アンナ・アロイジア・アポロニア・ケラーだったのだ。しまった、しくじった、罠に掛かけられた、そう思った時には後の祭り、慌て飛び退いて部屋のドアを開けたら、そこには神父さんが待ち伏せて、はっと思って後ろに下がれば、すぐさまアロイジアに羽交い締めにされて、関節技を掛けられ痛さのあまり、指輪の交換と宣誓までしてしまった。こうしてハイドンは絶望のどん底に突き落とされた。彼は芸術を介さないこの妻に生涯不快感を抱き続けるのである。挙げ句の果てには2人の間に子供は出来なかったから、不倫に生き甲斐を見いだしても差し支えないと言って、愛人まではべらす始末。それはいずれお話しすることもあるだろう。そんな中、元々危機的状況だったのだが、半ば財政破綻寸前に陥ったモルツィン伯爵も泣きながらハイドンを手放す決心をし、彼は紹介されたエステルハージ侯爵の元に旅立つことになるのだった。

エステルハージ侯爵家副楽長時代(1761-66)

 ノイージドラー湖の西方にしばらく行ったところにあるアイゼンシュタットにあるエステルハージ侯爵は、ハンガリーきっての名門貴族だった。今日ではノイージドラー湖もアイゼンシュタットもついでにハイドンの生まれたローラウの町もみなオーストリア側に属するが、当時はここはハンガリー領であり、しかしどちみちハプスブルク家がハンガリー王も兼任する膨大な帝国の一部であった。このエステルハージ家のパウル・アントーン(1711-1762)候がさらなる文化芸術の向上を目指し宮廷楽団の建設を決意したとき、ハイドンは彼に認められエステルハージ家の副楽長となって、年間400グルデンの給与を支給される契約書にサインを下のである。丁度それと前後して11人の新しい器楽奏者が集められ、前から居た1名を合わせハイドン込みで13人の宮廷楽団が組織されたが、これは臨時の演奏者増加や減少はあるものの、1775年まで続くハイドン指揮エステルハージ管弦楽団となり、以前からある楽長ヴェルナー率いる聖歌隊6人と共にエステルハージの音楽部隊を構成した。この楽団では、ハイドンが推薦してヴァイオリン奏者として楽団に加わり以降コンツェルトマイスターとして活躍するルイジ・トマッシーニ(1741-)が切り込み隊長の役割を見事にこなし、ハイドンの厚い信頼とエステルハージ候の信任を得て生涯この地位に止まったし、優秀なチェロ奏者のヨーゼフ・ヴァイグルもハイドンに見いだされて楽団に転がり込んだ。一方楽長のグレゴリウス・ヴェルナー(1693-1766)は高齢で十全に仕事をこなせないものの、多年の功績によって名誉職的に楽長の座に止まり、聖歌隊音楽に関しては仕事を継続することになったが、それ以外の職務ではハイドンが実質的にリーダーに他ならなかった。なんと彼の年俸は600グルデンだったが、エステルハージ候はこっそりハイドンに200グルデンを与えて彼に報いたから、破格の条件で副楽長に就任したことになる。このことからハイドンには、資料の残っていないエステルハージ以前にかなりの創作活動が有り、人々に認知されていた可能性も高いそうだ。
 さて、ハイドンを登用したパウル・アントンは翌年1762年に亡くなるので、実際のハイドンの主人はニーコラウス・ヨーゼフ(1714-90)であり、彼を将軍様として組長ハイドンが組織するエステルハージ楽団は、以後30年間もの間、地方貴族の宮殿を音楽中心地の一つに押し上げ、それを維持し続けた。そんな副楽長の仕事はやっぱり多忙の一言に尽きる。楽団の練習と本番の指揮は当たり前、ニーコラウス候の音楽欲に従って膨大な新作を立て続けに作曲し、楽譜・楽器の管理から雇われている音楽家の人事管理までがハイドンの仕事だったが、彼は自作曲を自ら率いるオーケストラ部隊で思う存分演奏し、その上後には自作オペラの上演までも可能になるという破格の条件が、ハイドンのやる気を一層引き立てた。すでに就任した61年には、標題を持つ珍しい交響曲である「朝」「昼」「夕」の3曲が作曲され、65年に作曲された交響曲第31番ニ長調「ホルン信号付き(または、狩り場で転げ落ちて)」は楽団内にホルン奏者が4人居たのに合わせてホルンが活躍し、当然ながらハイドンは楽団に合わせて楽器編成を決定して作曲を行っていた。その間、日常生活においては、父親がアイゼンシュタットに息子参りをして出世をした息子に感動し帰っていったが、安心しすぎて1763年、自宅の木材に叩きのめされて亡くなってしまった。残された子供のうち末娘は嫁ぎ先があったので、一人残されたハイドンの弟ヨハン・エヴァンゲリストは兄の元に身を寄せることになった。結局彼は、一流の歌い手ではないものの兄の名声のおかげでエステルハージの聖歌隊に雇って貰うことが出来、兄が離れた後もエステルハージに止まって、偉大な兄の功績によって私の給料が上がっても良いと主張した。
 64年にニーコラウス候はオーストリア皇太子ヨーゼフ2世の神聖ローマ帝国皇帝就任を祝う行事があるのでフランクフルト・アム・マインに出かけ、旅行ついでに心時めくパリにまで足を伸ばしたところ、うっかりヴェルサイユの豪華天覧に足下をすくわれ、ノイジードラー湖畔にエステルハーザ宮殿を建築する決心をした。完成は84年を待つものの、主要部分は66年に完成し、68年にはオペラ劇場も完成、73年には別にマリオネット劇場(ドイツ圏では庶民の出し物から、芸術的高みに到達したものまで人形劇が盛んに行われていた)まで持つ恐るべきこの離宮を、ニーコラウス候はヴィーンと戦える芸術の館に仕立て上げようと決心し、後に週2回のオペラを下働きにも閲覧させ芸術的使用人を養成する一方、オペラの無い日は人形劇と喜劇を上演させ、とうとう冬の一時期を除いて、ほとんどの生活をエステルハーザ宮殿で劇場三昧に送るようになってしまった。

そして楽長へ(1766-80)

 丁度そのころ楽長のヴェルナーが亡くなったので、こっそりワインを傾けてにやりと笑ったかどうだか我らがゼッパールも昇進、ついに楽長の地位を獲得し、1768年にはオペラ劇場がハイドンのオペラ「薬剤師」によって柿を落とした。勢いづいたニコラウス候は1775年頃に楽団を25人に拡大し、歌手を揃えて常設のオペラ団を結成。76-78年には絶対必要な構成楽器ではなかったクラリネット奏者すら存在した。こうしてハイドンも毎年ごとに自作オペラの作曲が開始、また数多くの評判のオペラの上演、1773年からはマリオネット劇のための音楽に、旅芸人達の劇のための音楽まで作曲し大忙し、なんとオペラの歌手の契約まで楽長の仕事だったから驚きだ。オペラはニーコラウス候の好みに合わせ喜劇もの(ドランマ・ジョコーソ)が多いが、もちろんオペラ・セーリアも上演され、ほぼヴィーンで演奏されたオペラと同様な作品が上演されれば、ハイドンは予行演習から本番の指揮までをこなし、それにつられてオペラのような劇的作曲法が取り込まれ始めた沢山の器楽曲も作曲したという。ハイドンお気に入りのジャンルとしての弦楽4重奏も数多く作曲され、トマッシーニが第1ヴァイオリンを演奏したと云われるが、すでにエステルハージ候によって外部委託作品を容認されていたハイドンが、60年代半ばから広まっていたハイドンの弦楽四重奏の新作を頼まれ、外部の為に作曲を行った可能性もある。一方ニーコラウス候大のお気に入りは、バリトン(ヴィオラ・ディ・バルドーナ)という楽器で、ヴィオラ・ダ・ガンバに近い6,7本の弦を弓で弾く楽器だったが、面白いことに弓で弾かれない共鳴のための弦が指板の後ろ側に沢山張られていた。ニーコラウス候のバリトン狂いにだけはハイドン相当手に余したようで、現存しているだけで136曲のバリトンの為の曲が残され、実際は倍以上の作曲が成された可能性もある。バリトンソナータだけではない、バリトン参加の4重奏から、コンチェルトまであらゆるジャンルが模索され、侯爵は自らの演奏のためにバリトン名手を何人も宮廷に逗留させ、とうとうハイドンに向かって「君のバリトン曲はどうも、演奏方法を知らないためか調性が限られているようじゃあないか。まあ、もうすこし勉強してくれたまえ。」と云うので、闘争心燃え立つハイドンはバリトンを人前で演奏できるほどに夜を惜しんでこっそり練習して、遂にニーコラウス候の目の前で演奏した事があったが、散々作曲を疎かにした上に、バリトンを演奏する人材はちゃんと用意してある、誰が中途半端なバリトン演奏をしてくれと頼んだのだと呆れたニーコラウス候は、それでも控えめに「君い、もっとその楽器のことを勉強してくれなくちゃあ困るじゃないか。」とたしなめたという逸話まで残されている。
 多数の交響曲の内では、1769年頃作曲され73年のマリア・テレジアご訪問の際に演奏された48番ハ長調「マリア・テレジア」や、71年頃作曲された数少ない短調曲の44番ホ短調「悲しみ」、そして豊富なハイドン逸話集の中でも特に名高い逸話を誇る45番嬰ヘ短調「告別」などが作曲されている。告別の逸話は今日オーストリアの昔話の一つとして語り継がれ、学校ではエピソード全体が劇になって学園祭で演じられているほどだ。(そんな馬鹿な。)それは、ディースの説明によると、建造中のエステルハーザ宮には楽団員の家族を収容できないので、団員達は半年も間を妻と離れて暮らさなければならなかった。しかし次第に家族を慕う心だけでなく、下半身も煮えたぎって来る情熱溢れた若い楽団員達は、毎年故郷に帰る頃になると、絶望的な情熱に身もだえしながらのたうち回っていたが、これは妻の嫌いなハイドンでさえも「他の人たちより状態がよいとは言えなかった。」と後に語っている。この状況を非常に滑稽に感じたニーコラウス候は、ある時6ヶ月の滞在をもう2ヶ月延長すると命令を下し、この予期しない命令は、情に燃えた若い夫達を恐怖と絶望にたたき落とした。壁に頭を叩きつけて暴れ回り、階段から転げ落ちては血だらけになる押さえきれない楽団員達を見かねてハイドンはついに決心し、一つの交響曲を完成させると、ニーコラウス候の前で演奏したのである。
 その交響曲は短調で、情熱的焦燥感を持った第1楽章で開始するのだが、第4楽章のプレストで燃えたぎる夫達の情熱が疾走すると、不意にアダージョ楽章が割り込み、我慢できなくなった楽団員達が、テーマを演奏するたびに明かりを消して、一人ひとりと訴えるような眼をしてうつろに部屋を去っていく。はっとした侯爵がかたずをのんで見守る中、ついには楽団率いるハイドンまでが部屋を後にして、侯爵お気に入りのトマッシーニが一人残って最後の演奏を行う。彼が明かりを消して立ち去ると、部屋の中は真っ暗になり、侯爵が隣の部屋に向かっておそるおそる「おおーい」と声を掛けると、恨めしい楽団員達の声が「へえーい」と帰ってくる。すべてを悟った候は立ち上がると妃に向かって、「彼らは情に駆られて立ち去った。私たちもまた情に駆られて立ち去らなければならない」と云うと、妃は赤くなって下を向く。控えの間に飛び込んだ侯爵は笑い転げながら、「了解了解、君たちは明日にでも故郷に向けて出発するがいい。」と言い、拍手喝采あたりに鳴り響いたという。まあ映画にしたらさぞ楽しそうな逸話だ。
 しかしハイドンにとって妻は情熱のはけ口にならなかったので、とうとう大変なことになった。79年にイタリアから遣ってきたヴァイオリン奏者アントニオ・ポルツェリとメゾ・ソプラノ歌手のルイジア・ポルツェリ夫婦がエステルハージ家に遣ってくると、わずか19歳の若奥さんが老体と一緒に食っ付いているのに同情している内に、つい同情が愛情に予定変更して激情が高まってきたので、ついにはいかなる障壁もものとせずゴールを目指して突き進むハイドンを、日頃音楽以外の事柄では優しく寛大な楽長「パパ・ハイドン」と慕う楽団員がアシストし、ハイドンの妻アロイジアが巨大化して押し寄せてくるのをスクラムを組んで阻止すれば、骨折3名、内臓破裂1名、ただし死者はゼロで何とか押し戻し、目出度くハイドンはさわやかな朝を迎えたという逸話が残されている。たまたま通りかかったニーコラウス候は不運にも巨大な妻に踏みつぶされて、病院に担ぎ込まれた。(そりゃあ、何の話だ。)


→後半へ続く


2005/04/23
2005/05/11改訂



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